209 肉料理:----・------(1)
返事をしなくなったヴァンダールの肩を押さえ、アーデルハイト・ホルミスは振り返った。精巧で美しい彫像は粉末と化し、滑らかで光沢のある天鵞絨は端切れとなって引き伸ばされている。暗闇の中で黒く見える絨毯は暴雨が過ぎたあとのように濡れそぼる。何もかも往時の形を留めない場所に月光だけが差しこんで、白剣を握る男を照らしていた。
執行官らはいまだ苛烈な雰囲気を漂わせるロラインに近づけずにいた。光を背負う男の相貌は闇に覆われて窺い知れないにも関わらず、激昂する目がヴァンダールを射抜いていると感じた。長靴の前で生ぬるくはためく紫紺の帯に血花を咲かせ、何者も罰せられるような注視がたった一人に向けられている。しかし放たれた威風はヴァンダールの目が閉じると、倣うように伏せられた瞳の奥に消えた。闇がはりつく相貌にそのとき初めて窮愁がのった。徐々に開いた目には悲愴がある。瞳を埋めていた苛烈な火は潮時と見て抑えたのか、水底に消えたのかは男だけが汲み上げられる情感に過ぎず、アーデルハイトには一語もいえることはない。男は何ものも混ざらぬ硬派さをもって剣血を払った。鞘に収める決まりきった動作は、雪晴れの日に聞く落雪のように否応なしに一つの終わりを告げていた。
胸郭をおろし、熱い息を吐きだしたロラインは広間の一隅にもつれあって立つ男女に顔を向けた。その時、すでに胸中の別事は処理され、顔には大主教たる矜持が戻っていた。もしもアーデルハイトの推測があたっているなら、男が渇望し続けた復讐が区切りを迎えたのだ。押し黙ったまま些かの感情も表に出さずに、おのずから剣を収めたというならアーデルハイトにこれ以上思うべきことはなかった。治癒や避難などの他事の指示に思考を割くために、ロラインを視界から外した。彼がその場を離れたことでようやく執行官らは握っていた手をゆるめた。震えている手は束の間使い物にならなかった。
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(――――確か、レーヴェといったか)
少女が生涯を終える瞬間、死の結果をはね返そうと飛び出した青年は、純粋な理性を働かせて、今もなお近寄るロラインに身体を強張らせた。かき抱く少女の背中は血に染まり、真横に一閃切られた衣服は、翼をむしり取られた証跡のように口を開けている。捲れた絹の下には白い肌が見え、少女が急に手をさし上げる度に生白い皮の下で動く関節が浮き上がった。不安という感情がない少女は青年の脇に腕を通し、肩口に頭を寝かせていた。面紗で何も見えないが、その裏からは廃退の対極にある拍子抜けするほど"愛おしい"鼻歌が聴こえてくる。
引き剥がそうとするのを恐れてか、痩せすぎの腰を支える手が動いた。ロラインはすぐに足を止めた。青年が張る警戒の外で、終始一貫無口に害意がないことを知らせる。相手をよく知らぬということが正義を遠ざけるのだと、それと知りつつ物語らぬことは強迫にもなる行為だが、人に奉られ生きてきた男は不必要な発言ひとつする術を知らない。
男の間に落ちた沈黙はすぐに立ち戻った。青年は壮年の男の底意に暗闇がないことをくみ取り、安堵したようだった。しかし目や眉にかけて強い苦痛をうつした次の瞬間には、膝をついてくずおれた。目に見えぬ病巣に蝕まれているというように首筋に大量の汗を流している。支えに差し出した腕を掴み返し、青年は力強く頭を振った。
「ひどい怪我です。どうかすぐに治療を受けてください」
一瞬理解が遅れた。自身や少女のことではなく、青年の純真な目はロラインに向いている。治癒者を呼ぼうと彷徨う目はうなりを発しそうなほど歪んでいるというのに。
確かにロラインは顎に滴る血を拭いもせず、出血を放置していた。先程の攻防で片耳は根元から失われ、耳朶の下の皮膚も削がれている。鼻を刺す鉄の匂いは側頭部にむなしく開いた孔から流れ、粘性の体液も混じっているが、骨を貫かれるほどの重傷ではない。人を率い、戦火を駆けた時にそのような自らを慰めるような甘えは捨て去った。燃える毛と肉の臭いや、弾け飛ぶ脂肪の臭いに揺れる心も脱落している。ロラインは表情を変えずに首を振った。大した事ではないと言って二人に治癒の光をまとわせる。片耳に聴こえる青年の気遣いの方が覚束ないものに感じられて妙に心が逸った。
青年はとうとう床にのたうち、痛みを訴え始めた。人言に混じって獣の呻きが混じり、痛みを逃がそうと自身をきつく抱くありさまは常軌を逸した姿に変わっていく。
「触るぞ。どこが痛む」
「せ、背中が、う、ああああッ、あああ!」
「背中…」
暴いても傷はなかった。手探るため深く差しこんでも背骨の山が指先を押し返すだけだ。種族的特徴の一切ない肌の下で、何かが蠢く。ぞっとしたその時、ロラインは駆けてくる息遣いに気づいて顔をあげた。
 




