208 冷菓:聖女の余興(19)
馬の背に乗り、鮮血を浴びながら共に駆けた。馬の手綱を握り、棹立ちになって剣を突きあげる姿は、乱戦のただなかに命を投げ打つ価値があった。その男が自分に向かってくる動機は、考えうる限り愛だ。それも自分のための愛ではなく、家族のための。
「娘程度で」
「ロライン! ならん!」
ホルミスの叫びを皮切りに、ロラインは床を蹴り、二人の間の空気を押し出して一か所に躍り出た。その目には煮えたぎる炎だけがある。
馬鹿の一つ覚えのように突進してくる男を前に、ディアリスの顔には笑みが浮かんでいた。互いの祭服にかかる赤い細布が否応なしに飛びあがった。ロラインは段差を踏みきり跳躍する。真っ直ぐに剣を振り上げる肩に矢が突き刺さる。射手は執行官の男だった。ヴァンダール派の者たちが助勢のために前に出た。ロラインは平然と空中で体勢を変え、片手のうちに執行官らの首を裂いた。袖口に忍ばせていた小剣を投げて、青年らの口を封じたのだ。針のような両刃は、細身で隠しやすく奇襲に適している。ディアリスも横目で男の意図を汲んだ。邪魔をされたくはないのだ。ディアリスの祭服が魚の鰓のように捲れ上がり、垂れた鞘があらわれた。駆け下りてくるロラインに向かって剣を抜き放った。
「来て見よ!」
寸分も狂いもなく元の形に戻るように、二人の魂は一点で向かい合った。肩書きを演じることも最早ない。心はかつて肩を並べた若い時代へと還っていた。ことごとく忘れ去っていたものほど美しく見えるように、今、一対の剣から発せられる耳朶を打つ爆ぜるような音は、重層的な響きをもってディアリスの心を大喝し、無垢純粋な魂へと押し戻した。
血が沸き立って心臓に雪崩入る感覚が内側から迫る。面白がりながら剣を振るなと幾度この男に言ったことか。世の一切を恨むような風体風貌をして、剣技礼法のひとつも知らぬ男だった。それが紫紺の祭服に汗を流して剣を真横に払う様は、理性を首飾りにして優雅だ。咥内にまで理性をあてがって塞いでいるのをみると、咄嗟に指を突っ込んで開かせてみたくなる。
ディアリスの手には意匠を犠牲に、刺突のためだけに設計した細剣が握られている。携えていた隠し剣に顔色を変えぬあたり、元より気づいていたのだろう。再び斬り結び、かみ合った剣は微動しない。剣を左に流し、背後を取ると首筋を粗く掴む。が、髪をかすっただけで視界から消えた。身を屈め、はるか下に伏している。剣を握り直す暇さえなく、低く走る薙ぎ払いを避けて一足飛び退く。さすがロラインは異様に身が軽いが、理術を頑なに嫌って実剣で襲い掛かることしかしない。討ち果たすという気魄は向こうの方が上回っているが、とディアリスは走りつつ飛来する小剣を薙ぎ払って返した。
光矢理術に肩を射抜かれたまま平然とする男とまなじりを合わせる。次の一撃で決するだろう。血を噴く執行官を復するために治癒に奔走していた教職者たちは、かけつけた他の教区の者の助けをかりて執行官を担いだ。手当てをすませるが早く、すでに執行官らは回復の兆しを見せており、二人の大主教の運命に必死に頭を向けて、これに続こうと身をよじって叫ぶ。理力の世界でなお、一剣を拠り所に立つ男たちの姿は余燼のごとき放る理力残滓をまとい燃え"咲かる"ように煌めいていた。ここで死ぬために生きてきたという相貌がそこに在る。
愚直な一足、左右同時に跳躍する。ディアリスとロラインは肉体から溢れた湯気をまとい、駆け抜けた。一挙に賭けた情熱があるように見えた。しかしそうはならなかった。
ディアリスも、そしてロラインも物を言わず目を見交わして、互いに仕掛けた。
「後生!」
「(残像……ッ!?)」
互いの体に沈んだ剣は、ディアリスの胸に沈んだ切っ先の方が深く、骨を断ち、肩を抜けた。ぼとりと床に落ちた左腕に剣が握られている。自分の腕だと理解した瞬間、ディアリスの全身から汗が噴き出した。白い額にロラインの剣が戻ってくる。おそらく、何よりも速い。最期に見る光景だった。
「そこまでだ! 双方剣をおさめよ!」
剣は額に触れて止まった。傾ぎながら膝をつくと、憎い美丈夫が割って入る。全身から力が抜け、急激に体温が失われる。
「アーデル、ハ……ッ………」
「気を保て。止血をする」
「罪と、……罪と知りつつなぜ」
治癒の光が傷口に密集する。瞼の裏が明るく、頭上から降るアーデルハイトの声は天から聴こえてくるようだった。
「お前は龍下を害し、国民さえもないがしろにした。納得はできない。そこまで龍下を憎んでいるのは腐臭を嗅いだだけではないのだろう。強情者め。もっと割ればよかったのだ。案ずるべきものを大衆に諭す前に、我等に、私に」
「ふ……疑問……余地もな…い」
「馬鹿者。それだけでは足りると思うな。治癒は取りやめる。理術も封じる。腕は私が預かる」
「おやさしい……ことだ……」




