206 冷菓:聖女の余興(17)
言う言葉なく見つめるレーヴェの肩に手を置き、隣人はゆっくりとそばを離れた。長い裾で絨毯を撫で歩くと、伏せていた白狼の手前に達する。狼は訳知り顔で身を起こすと、共に同じ方向を睨んだ。扇から光がほとばしった。理術だ。
レーヴェは怖れなかった。その人の操る理力の光はあたたかく、希望に見えていた。他者を摩耗させ、傷つける道ではなく、癒しの道だけがあればいいのにと心の底から思う美しい光だった。粒子は天と地に自在に広がり、みずから光の壁となって堆積し始めた。最後にはゆるやかな傾斜をつけてレーヴェたちをすっぽりと覆った半円の天蓋は、ぴんと張りつめ、すべてから守ってくれるように見えた。
わずかな隙間もなく四方から光が射して、眩さに思わず目をすがめる。視線がうつる先では、扇のさきで下唇をなぞる横顔があった。その艶姿には似合わぬ絶えざる不安がのぞき、彼らの睨むさきを見つめる。しかし視認性に欠けた壁に大きく鼓動が跳ねただけだった。
そばの白狼は頭を下げて唸り、攻撃的な活力をみなぎらせている。レーヴェは世界が終わる性急さをようやく感じとった。少女を抱いて立ちあがると、二人の横に並ぶ。はっと息を飲む音がした。
後ろの壁が溶け始めている。レーヴェは自分の場所を確かめるように素早く前後を振り返った。松明に触れた布があっけなく燃えるように、ほろほろとつながりを断つ壁の向こうに、広大な広間が見え隠れする。床に落ちたものからじゅっと音がしたような気がしたのは、半壊したおぞましい欲望のなかへ戻るからだろうか。冷たい夜風を感じたが、レーヴェはひるまなかった。両脚をふんばった。
「レーヴェよ、余は時を稼げぬと承知で来たのだ。ああして年寄りがむきになっておるのは、見ておられん」
「……いずれわかりますか」
「すべて。たいしたことでもない。のう、レーヴェ、酷な事だが」
「はい」
「これからお前は体も心もひどく傷つき、数多を呪うことになる。その者が死する定めを持つように、お前もまた苦しむ定めにあるからだ」
「…………」
「……言伝てなくてはならぬことは山とある。あるが、役目がら逸脱がためらわれる。お前を巻き込んでまた道を違えたらと思うと、何を言っても関わりがあるように思えて窮屈になる。ゆえに、多くを内緒事にしておかなくてはならない。代わりに澱みばかり吐き出しては世話ないが。己への腹立たしさがそうさせる。お前を、お前だけは………………」
「……」
「……"それ"は、身も心も細って震えておるのだ。俗人に自在にされても怨めぬ哀れで苦労ばかりの女だが………………なにとぞ頼む」
白布の少女をしっかりと抱く腕をほどき、片腕だけを差し出した。何も言わずつきだす手のひらを大きく広げ、無言で催促をする。訝しがる目が顔を舐める。レーヴェの目には願うその人こそ震えているように思われた。白い頬がぱっと桃色に染まり、目が糸のように細くなった。
「余も抱こうというのか。欲深い童め、うらめしい……」
いっそ…、と言ってから首を振る。世界が端から融けていくなかで、もうすぐ動静が反転する。
互いに手を握りしめたままでいると、物問いたげな顔を一瞬見せられる。レーヴェは願いを瞳の真ん中でとらえ、上目遣いの貴人を引き寄せた。つないでいた手は背中にまわし強く押しつける。ぎゅっと抱き合わなければ、重ねた衣の奥まで気持ちが届かぬような気がした。何故だか最後の逢瀬だという思いがかたわらに在る。
「名残惜しや」
身を離す一歩一歩が、苦し気で、嬉し気であった。光の壁が完全に消失したとき、一際大きな光がレーヴェを襲った。視界は真っ白に染まり、足取りは乱れた。少女を抱きしめるレーヴェの耳に刹那の声が響いた。「さらば――」
「友よ今行く!」
白狼が吠えた。
――
ディオスの元を離れた大主教が両手をあげて高らかに言った。
「さてお立会いの方々、答えは出たようです。人形遊びをしていた男の退位を要求します。そして新たな龍下の位継承まで、首長の空位を宣言しようではありませんか」
理術によって拡声され、隅々まで響いた声は機嫌が良さそうで、ひとり事のように口ずさまれる。自分の理力よりさらに膨大な理力によって守られ、都市と同様に内外二重の城壁で囲われていた。ディアリス・ヴァンダールの要求は室内に伏す、すべての者に届いた。まだ白と赤の司祭服を身に着けているディアリスは一目見ただけで教職者だとわかる。しかし人々の目は互いを覗き込み、別の赤白の使者を探している。誰であるかは明らかだ。
龍下は血に染まり、白い箇所がまだらに残るだけで、横たわって長らく動いていない。袖口に半分隠れた指先をこまかくみて、動いているか確かめたが瀕死であることに疑いはない。
ディアリスは龍下を殺すつもりはないと言ったが、大聖堂の尖塔から吊るすべきか考えた。民衆が彼の非を認めないというのなら、そうするほかなかった。彼がこそこそと囲っている医師団が、濫觴の民におこなってきた記録文書を公開する用意もある。
一歩踏み出したディアリスは何かがいることに気づいた。不可視の何かに見つめられている。広間のどこからか、咆哮が聴こえた。俊敏な獣の発する咆哮が。
瀕死とみた男が赤い顔でこちらに腕を向けていた。本能的に龍下から目を離さぬままディアリスは錫杖を前に突き出した。




