205 冷菓:聖女の余興(16)
「そのように語らず伏せて。いつまで黙っておるつもりだ」
「ご存じなのですか? であれば彼女を連れてお逃げください。いけませんか」
「哀れなこれをか? 知っているようで知らぬ。あまり大きな声では言えんが、よからぬ女よ。ふふ。ともなれば余もよからぬ男ということにはなる。世話はない。お前のように頼まれもせず、火中に飛び込むような者は後を絶たぬのだ。放っておけばよい」
「捨て置けとおっしゃるのですか」
「不服か。解らぬな。知らぬ女の為にそこまで命を張る。すでに後ろの者どもは傷つけることを躊躇わず、己の欲望のままに生きておる。そこへお前が命乞いをし、道理を説いても、時すでに遅いのだ。お前は嵐に巻き上げられた砂の一粒に過ぎず、嵐の成り立ちを知らん。女に頼られのぼせたか? 細腕が絡みつくほどに心地よいと見える。だから小汚い女を抱いて死ぬことが名誉と思うのだな。口がきけぬ女を念弄すれば、気安く喰らえるとでも思うて。まあ、いくらか声はでる。ひとつきふたつきすれば良い声でなくか。ははっ、女を知りもしない癖に睨むな」
「わざとおっしゃっていることはわかります。恩人様、私も問いましょう。なぜと問う必要がどうしてあるのですか。彼女を助けることが手間でならないのなら、ここから出してください」
「手間ではない。ないが、わざ定めを変える必要もないというもの。これは人の形をなしているが、身に死と生を宿す器よ。定めと知ると大抵の者は飲み込み、恩恵に与ろうとする。礼を言って喜び、罪悪に苛まれ、最後には気が狭くなってひとりで楽しむようになる。そう顔色を変えるな。のんきよの。想像できぬわけがない。ただの女ぞ。どうとでもなるから、こうなっている。だからお前に"逃げよ"と言ったのだ。それを叶えてやるのがお前にできる務めではないのか」
「どうして……知っているのです」
「知っているから問うておる、答えよ」
「……」
「……」
「…………私は、ここぞというとき、思うままに飛び出してしまいます。済んだあとに振り返れば理由もわかりましょう」
「なぜ女をなじられて怒った。女のことを我が物にしたと思うておるからではないのか。体を所有したとしても、心までは物にできん暴れ馬ぞ」
「やはり相応の関わりがあるのですね。なら、なおのこと遠くへ」
「足りぬな。くどいが重ねて聞く。女をなにゆえに助ける必要がある。死しても死なん奈落の底の化け物ぞ、誰ぞ殺しに来ても勝手にさせておけばいいではないか。お前のような小童は海辺の寂れた村で貝殻を拾い歩いているくらいが似合い。こんな奇妙な場所は特に似合わぬ」
「そうは思います。が、似合う似合わぬの話ではないのです」
「いっそ人殺しを許せんと嘘をいわれたほうがあっさりする」
「嘘、嘘などに何の意味が」
「お前の生涯ほど人に委ねられているものはないというのに怒るか。今更なんの意地を通そうというのだ」
―――意地
答えなければ足を返さぬだろう人を前に、レーヴェは虚空を見た。脳裏を覆う濃いもやの向こうに、人の姿が現れる。
あれは、朝夜わからず痛む頭を押えながら目覚めた日のこと。窓外を雨が繁々と叩き、雫が滝のように流れていた。何か夢を見ていたことだけは覚えていたが、それもすぐに忘れて母の子守歌を聴いていた。
(案外……何てことはないのかも知れない)
夢で出逢ったのはレーヴェの腕の中にいる少女と同じ面紗を被った子だった。最後に見たとき背の高い美しい女性の姿に変わっていた。寂しそうに微笑む女性に名を呼ばれたとき、手を伸ばそうと踏み込んだがどうすることもできず、弾かれて落ちていった。あれで終わったのだ。けれど今はそうではないと気持ちが強く断じた。再びあの手を掴むために走っている途中なのだと、レーヴェの中で判然とした答えが出た。
「………夢で」
「夢?」
「そう思っていたのです。彼女とまみえました。霞のように頭から消えましたが、彼女をみて思い出しました。今のように時のとまった不思議な、とにかく不自由なところで逢いました。どう手引きされたのかもわかりません。何もわからず名乗り、ただ手をつなぎました。逃げろとその時に言われたのです。でも手は離さなかった。離せといわれて、互いに離さなかった。この人とは少しだけ違う。でもであるとかないとか、構わないのです。私ごときに引っかかるものは何もないこともわかります。それでも手を離したくなかった。私の欲です」
「女がどう言おうとも?」
「はい」
「死ねば終わりぞ」
「……死を思いながら生きたことがありませんので、勝手にします」
「ふ、女の為などと申したら、むざと命を落とされる前に貰ってやったものを。お前は馬鹿なままだ」
夢 EP78-80
 




