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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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204 冷菓:聖女の余興(15)

四肢で力強く赤絨毯を押し返しながら立つ白狼は、しばらくレーヴェの顔をまじまじと見ていた。唾液に濡れた舌の白色の突起まで微細に見える距離は、都合のよい夢ではないことを教えている。腕をあげてみると、後ろで立腹している隣人をよそに手の甲に擦りよってくる。指先はみるみるうちに体毛の中に消え、白狼は次に少女の面紗にも顔を寄せた。ふふと笑う声が聴こえる。


塩気を孕んだ海風よりも香る大地の匂いは、レーヴェの脳裏に草原を走る美しい獣の姿を着想させた。その美しい映像の中の目は青い光を反射していたが、こちらを覗き込んだと思うと、軽やかに離れていく彼にもまた同じ色の瞳があった。白狼は一瞬身を折るようにして振り返った。そこへ身なりを整えて素早く寄った隣人が首根っこをむんずと掴み上げた。なんと片手である。


「なにゆえついてきたのだ、ん? 言うてみよ駄狼め。思い出まで人迷惑と言うつもりか? 何を困ることがある申してみよ」


ぴんと立った耳が叫声に反応し、すかさず身をよじるが、さしあたって手から離れるつもりはないのか吊られたままでいる。唇をきゅっと押し出して不満を見せる相手に、狼は強弱をつけて鳴いて返した。


「不憫というたか。ずけずけと……お前はいずれ面白いと思えるかも知れんと言うておったが、たいして変わっておらん。それどころか気が逸る。歳はとりたくないものだ。日増しに窮屈で生き辛くなる。ま、とにかく、ならんと言うた。まだ帰りならん」

また一鳴き。擦れた声の主が首を振った。

「風のように来たのだから、勝手に去れ。それでよい」

低い声が一鳴き。隣人は、かかと笑った。

「お優しい駄狼、だから小童のような名がつく」


レーヴェは感心しきりだった。人言がわかる狼にも、狼に食って掛かる相手のどちらも目にかかったことはなかった。そしてどうしてこんなにも物悲しく感じるのだろうと、気高い品位の向こうに目を凝らした。


隔たりは重ねた衣のように厚く、藪を走るようにレーヴェの目をかどわかす。先の見えぬ暗い森を走ることはレーヴェの生涯といえるほど心に浸みていた。仰ぎ見る空には何もなく、何故ここにいるのか、自分が誰なのかもわからないまま生きてきた。心の中にしかとあるべきものが欠けていると、鬱々と考え続けていたが、考えている程度では死に急ぐ理由にはならない。


いつしか迷いは、天高く舞う鳥になりたいという願いへと変じた。同じように暗い面持ちで地を眺める人々に優しい目を掛けて、一人ではないと励ます者になりたかった。暗い森を駆けまわるのは自分であり、母であり、育ててくれた風呂屋の女性たちであった。高所から悲しみのすべてを見通して、いらぬ苦労を背負って森の奥へと進むことがないように導きたかった。小屋めいた邸の中で悲鳴のような嬌声を聴きながら、天井そばの高窓から空を見ていたあの頃。開けられもしない小さな窓は垢と錆が染みついてほとんど何も見えず、まじまじと眺めることさえ許さない。

何とか住める形の小屋にあの人たちが残っていると知り、無理を通して一人で訪ねた折には「たくましくなったわね」と言われて泣くのを抑えるのに苦労した。降りつむ雪の白が、薄汚れた窓を一段と光らせていた。身を案じているというと、勝手に案じていろと笑い飛ばすような人しかいなかった。若者になせることは何一つなく、それで良いのだと、やがて馬車に押し込まれる。扉の前に立って、いつまでも手を振ってくれた愛しい顔は角の向こうに消えた。


情は不要だから捨てるようにとシャルルにごつごつと言われ、その度に突っぱねてきた。情があったから今日まで生きてこられた。それどころか口が過ぎるシャルルこそ、他者の口出しなど聞きもせず身を固め、間髪入れず暗所に駆けていくのだ。レーヴェからすれば、自らの魂を土葬しているように見えて呆れる。大きく口を開けて笑ったことなど一度もない男と、何気なく炊煙を嗅いで同じ家に帰りたいのだ。思いはどんどん強くなる。それもまた情といえる。


レーヴェは片手を天井に突きだして翼の動きを真似た。片翼では飛べない今、地を這ってでも守らねばならないものがある。少女の片身を掴んだ。


「ふふふ、きゃうんと言うたか。死に急ぎと見て追ってきたか。お主が惜しんでくれているというなら、あながち死に急ぐのも悪くはない」


大きなあくびをした狼は、首を振って拘束から抜け出すと、見事に着地してレーヴェのまわりを一回りした。ひと通りみて離れていくと、代わりに豪奢な服を着た人が距離を詰めた。

美しい襞の重なりが目の前に立ちはだかる。真上を向くと、前に落ちた長髪をゆすぶりながら、顔を覗きこまれた。歳はそれほど離れていないようにも感じた。シャルルと同じくらいにも、しかし数千年生きていると云われても納得できる微笑を見せられると、レーヴェの頭は少し混乱する。

草むらに顔を寄せ、虫を愛でるような好奇心に満ちた顔でその人は言った。


「ほんに不器用な愛し方よの。訳がわからんと思うが、辛抱はつくな?」


つくなと言われ、否とは言えずレーヴェは黙った。






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