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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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203 冷菓:聖女の余興(14)

何枚も生地を重ねた貫禄のある衣裳を軽く翻したその人は、レーヴェと目を合わせると軽く笑った。少しくたびれたような笑い方に胸が締め付けられる。


容貌も空気も、たとえ軽率にそばに寄られた事でさえも、その人の存在はレーヴェの直感に反しなかった。単に危険を予測する能力が狂っていたと見られても仕方がないが、推論がその人に危険はないと云っていた。さらに言えば、目の前に突然おどろおどろしい獣が現れたとき、(足の多い虫などを想像してほしい。母はその手の虫がとても苦手だから)心の中に爆発的に発生した衝動のままに、走ったり、叫んだりすることがある。それらの反応は抑えようもないものだが、レーヴェは突然そばに現れたその人に怖れも、逃げなければならないという衝動も感じることはなかった。それどころか、腕の中にいる少女と"同じもの"すら感じていた。声や色、すらりと伸びた身の丈を包む異国の衣裳もその多くが異なるというのに、何らかの要素が二人を同じものとして分類させる。その結果、レーヴェは素直に順応し、疑念もわずかに持たず、最終的に言葉そのまま「隣人」という概念だけを持ってその人に話しかけた。


「初めてお目にかかります。どなたかわかりませんが、理力が使えたらこの方の傷を治して欲しいのです。怪我人は他にもいます。道具もなく、知恵もありませんが私が差し出せるものは惜しみません。どうか」


自分の要望を伝えてじっと待つレーヴェに、その人は驚いて目を瞠ったあと悩みが慰められたというような、ほどける笑みを浮かべた。


「余がお前の命を望めば、死んでもらうことになるが構わんか?」

「はい」

「はっ、馬鹿め。方寸に命を託すなど愚か者のすることよ。お前の都合一つで消していいものなど在りはしない。思いあがるな。子のうぬが死んで親はどう思う。残された苦しみを思えば気の毒よ。それでも要らぬというなら一人で死ね」

「……」

「なんだ、死なねば覚えんか?」

「いいえ。身の毒と知りました」

「どうかの。忘れてくれるな」


扇で空を払い、一閃、空を撫でた先から光がこぼれた。粒子が少女の体を擦過していくさまを見守って、レーヴェは詰めていた息を吐いた。首にまわる腕を優しく叩くと、純白の少女は快活に顔を上げた。面紗ごしに見交わす顔は嬉しそうだった。


「受けてくださってありがとうございます。失礼なことを申しました……お許しください」

「構わぬ」と言ったあと、扇の向こうからけらけらと笑う声が聴こえた。

「お前を思うておった。余に手間をかけさせたとでも思うておるのか? いとしや。お前ほど私から去らぬ男はおるまい。その戯言にも理由があるのだろう。許す。またその(つら)を見れて嬉しいのだ。快く言うことを聞いてやると言いたいが、それより他はどうにもできん。許せよ」

「龍下やほかのかたたちは」

「ならんのだ。言わせるな、つらい。遠路はるばる遣わせて声を掛けるだけしか許さぬとは。厳しいのう……何も答えるつもりがないとはっきりしておいて、心は閉ざしきれぬから、道のほとりで咲く花を忘れられんのだ……面白うない、面白うないわ……」


最後の言葉は自分の向けられた言葉ではないとレーヴェは思った。視線を追うと、広間はしんとしていた。レーヴェは自分の腿をつねった。夜風に浮かんだ花弁が苔むした岩場の方に流れていくのではなく、空に浮かんだままでいる。大主教も他の人々も、彫像のように雄々しく立ったままだった。龍下をしばらく見つめた悲しい双眸は思い余って息苦しさを吐き出した。


「スイカズラが開いておる。そのせいで不安定になったのだ。筋書きが変わり、生まれぬ道が選ばれた……こうではなかったはずだ旧き友よ、一本気な者はひとを苦しくさせると言ったのはお前だったではないか………」


「一人では無理だったのだ…………」悲しい顔つきを最後に、息が切れるように黙り込んだ。


じわじわと悲哀に侵されていく中で、その人はぱっと振り返った。首を振って笑う。笑うにふさわしい顔とは言えなかったが、うんざりとしながら、それでも前を向こうとしているのだと思った。


「ひとり言よ。とも一口には言えん。見苦しいものと人は言うが、起こってしまったものはどうすることもできぬ。レーヴェ、其方とまみえるのは初めてではない。ゆえあって名乗れぬが、―――」と言ったところで、真剣な顔が崩れ、踊るようにその場で回り始めた。レーヴェの視界を横切った大きな毛の塊が、長い裾をくわえ円を描いて走っていた。簀巻きにならぬように踏ん張るも、どうにもならず隣人は叫んだ。「はて迷惑な!」


外套が乱れ、腰帯につるした煙草入れが装飾とぶつかり、かんかんと鳴った。蓋にめぐらせてある飾り紐が赤子の玩具のように左右に揺れ、足元をかわるがわる跳び回る白いものは、レーヴェが「あの」と声を掛けた瞬間、四足を留めた。真っ赤な舌が垂れ、素早い吐息が鼻にかかる。凛々しい顔の狼が鼻先をレーヴェの顔にすりつけた。

現れたのは成狼している大きく気高い白狼だった。






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