200 冷菓:聖女の余興(11)
「彼女の命が失われる瞬間、理力は器から解放されます。くびきから解放された力は、それを成した者に帰属する。人の働きに報いて金品を与えること同じ、明瞭な図式です」
彼が何を目指して歩いているか気づいたレーヴェは身を傾けて、床を擦るように低く蹴った。靴先にあたった短剣は歪んだ窓枠にあたって、崩れた食卓の裏に飛び込んだ。そのまま素早く少女を背に庇おうとしたレーヴェだが、反動で背中から倒れ込んだ。大主教は少女の裾に錫杖を穿ち、レーヴェが精一杯引くと見るとわざと錫杖を引き抜いた。背中をしたたか打ちつけ、レーヴェの意識は暗闇に包まれた。
「彼女を穿ちさえすれば、皆さんも理力を受け取ることができます。しかし年端も行かない少女を嬲るのは哀れで躊躇いがあることでしょう。けれどもっと惨い事をしていた者がいます」
レーヴェの腕におさまっていた少女が突然仰け反って床を這いずり始めた。ばたつく足がレーヴェの脛に当たる。意識が飛んでいた青年はびくりと全身を震わせ、すぐに戻ってきた。まくれ上がった面紗の下から虚空を彷徨う瞳が一瞬見えた。レーヴェは確かにそこに哀しみを見た。彼女を両腕で抱きしめ、離さぬように揉みあう。
彼女の背中がぶるりと震え、くたりと力が抜けた。大主教は一部始終を眺め、愉快そうに顛末を笑った。
「死んだね。大丈夫だよレーヴェくん。痛みは感じないんだ」
腕の中で少女が息を引き取った。
レーヴェにはよくわからなかった。彼女を抱いているのがやっとだった。
「突き刺されても、肉を裂かれても、骨を砕かれ、燃やされ、どのような方法で殺されようと、彼女は戻ってくるのです。それはみな、ここに横たわる情けない男が既に試したことなのです。ご安心ください……この方も生きておいでですよ、まだね」
悲鳴があがる。龍下の無事を希う声が続いた。まだ多くの者にとって、自分の命より尊い存在だった。そんな彼が苦痛を味わい、横たわっているのをみると信徒たちは自分も痛めつけられたように感じて嘆いた。
「ヴァンダール様!」
「ご慈悲を、どうかご慈悲を。龍下をお助けください……!」
「どうして? 助ける必要があるでしょうか。龍下は、彼女を囲い、この膨大な理力を独占してきました。どこに還元することもなく、自分たちだけで味わい尽くしてきたのです。私はなにも彼女の新しい飼い主になりたいわけではありません。彼女は濫觴の民、罪を贖う為に生まれた子です。贖罪は龍下ただひとりではなく、後の世に生きる私達すべてにするべきではないでしょうか」
「けれど、だけども……」眉を下げる信徒たちにヴァンダール大主教は穏やかに、しかし冷然と続ける。男はすでに二度目の光を胸に吸いこんでいた。
「私は龍下がおこなった人倫にもとる行為を告発しなければなりませんでした。私達の龍下をどうすればよいか、みなさんに答えていただきたい。皆さんは教会に深く帰依してくださっています。こうしてこの場で、龍下の罪を開示したのは、国の行く末をともに考えていきたかったからです。教会の小さな部屋で龍下の罪を暴くのではなく、皆さんの前で真実を曝したかった。どうか、私の言葉や、彼の言葉を思い出してください」
龍下はその身を、国と国に生きる者に捧げているということは常日頃から公言しているが、龍下という肩書きと相まって、龍下の生涯は天日の下に明らかにはなっていない。人々の為に尽くす良人である事は彼の一面に過ぎないのだと、大主教の言葉を信じればそういう事になる。すべてを一直線に浄化し、愛によって手を差し伸べる彼が、我々の見えないところでは年端もいかない少女を飼い、痛めつけているというのなら、彼のこれまでの美しい功績は一瞬にして異臭を放つ汚物と化してしまう。
しかし甚だ鵜呑みにできないという気持ちが勝った。龍下の醜聞を声高に叫ぶ男をやむを得ず担ぐわけにはいかなかった。怖ろしい罪が平気で犯されていたことは糾弾しなければならないが、広間を半壊させ、戦場にしたこの男も、自らの望む筋道の為ならやむを得ず暴力に走るということは龍下の行為とどこが違うというのだろう。
思考は公に共有されなかったが、たった一人が呟いた不満を皮切りに支え合って立ち向かおうとする人々を縫い、急速に広まっていった。
「私は彼女の存在を公表しました。けれど龍下はやめるように迫りました。私は人のさらなる進化のために、彼女の神秘が必要だと訴えました。けれど龍下は頑なに首を振りませんでした。この大会に彼女を同道したことも、宝石を見せびらかしたかっただけなのです。私が連れてこなければ、彼は彼女を部屋に押し込めたまま、今でも一人で殺される時を待っていたでしょう。昨晩、大聖堂の尖塔は血に塗れました。龍下はそこで彼女と何をしていたか、言葉にしなくてはいけませんか? 龍下の理力は彼女から奪い取ったものです。もしも、貴方方が真に龍下を慕うというのなら、悪行を止めようではありませんか……共に」




