198 冷菓:聖女の余興(9)
静寂。大蝋燭は金の燭台ごと倒れ、食卓を飾っていた瑞々しい果物や丹精込めてつくられた料理も床に散り、すべては闇のさざなみに飲まれていく。ひしゃげた窓枠にもたれ掛る彫像の上肢はなく、飛び散ったまなじりは辛うじて岩礁に留まっている。思いもかけぬところに落ちた乙女の両目は煌めく星空を見上げたまま、岩礁にぶつかって裂ける波音を聴いている。
海上より運ばれてくる冷気は散乱する死人たちの顔や宝飾を撫で、暗い内部へ畳み込まれた熱を奪っていく。広間は月影に照らされた陰影でふたつに分かれ、ただなかにいるレーヴェの頬に深い影を落とした。乱れ髪のかかる耳に桟橋を進む蹄の音が聞こえてくる。豪華な屋形を引いている二頭の馬はたてがみを靡かせ、ゆっくりと灰色の下に尖塔をつきだす大聖堂を目指して進んでいく。物見窓から無我夢中で話している自分の横顔が見えた。ほんの少し前の自分の姿がまなこに映る。向かいに座るシャルルに浮かれるなと釘を刺されて、唇を尖らせて拗ねて見せた後すぐに頷いて返した。首の飾り紐を直してくれる彼の顔はいつもよりずっと優しく綻んでいた。
「少年、もう気は済んだかな。君の命は取らない。君の父上はとても心配していたよ。絨毯の端まで来ていた。あの"人山"を掘り返せば足ぐらいは見えるかも知れない。彼はね、今すぐに駆け寄って君を連れて帰りたくてたまらないという顔をしていた。ずっと私を睨んで、その視線は私の背にずっとかかっていた。君の家には奥方と生まれたばかりの赤子が待っているね。君は弟の為にも私の邪魔をしてはいけない。それ位はわかるね」
項垂れる青年は凍てつき、何の反応も見せない。細かい繊維の一筋に血を吸いこんだ祭服を必死に握りしめる手は汗ばみ、強欲で無垢で、何の役にも立たないさまは大主教を一層爽やかな気持ちにさせた。
嘲笑うには及ばず、大主教は頬を緩めきらぬように留めた。青年はきっと真っ直ぐな目で、飾らない言葉を押しつけてくるのだろう。ことの根底に横たわる本当の事だけを掴んで必死になって訴えてくるだろう。柔らかい髪を往復する手を離すと、青年は思った通りに顔をあげた。これから青年が何をしようとも、何を言おうとも許容したいと心の底から思った。微光がかかって青白くなる頬が次はどのように震えてくれるのか、大主教は少し身を起こして見つめた。
「ここまでしなくてはいけませんか」
ここに及んでまだ理解しようとする優しさに、彼の白帆には一点の汚れもないことを知る。星座が静かに下りてくる空を見上げるように頸をあげた大主教は、喉の奥から、ふふ、ふふとつながりのない笑みをこぼした。夜風をわけながら玉座に戻り、肘掛けに倒れる侍従の手から錫杖を抜き取った。
手中におさまった龍下の杖は、まだ物語を持ち得ない。青年が美しく無謀に自らの人生を編むように、自分もまた編んで返すのが礼儀であった。
すべては国民への友誼のうちに、最後まで物語を語る役目があるからだと簡潔に表すのならそうなる。それで理解できぬと云うなら、内情がわからぬ立場にいることを呪ってほしい。何も、理由なき暴虐に及んだ訳ではない。どんな残酷なこともできる力を手に入れ、それを行使しようとしたというのはつまらない導入に過ぎず、そのような事でもない。私という白帆がいかに悪を孕んでいようと、国の創造には一切与らないのだといっても青年は詭弁というだろうか。ふと、青年が怒りをくべて激発する姿が見たいと思った。思考は瞬く間に結晶した。
「私はいつも通り国民の為に奏上した。こうして私と龍下、他の大主教らと何でも話して、首を縦に降らず対案に対案を重ねるて半日が過ぎることなどよくある事だ。しかし彼はとても重要な事を隠していた。絶対的な利益を独占し、共有を拒んだ。ならば国益に反することを諫めるのが大主教である私の責務。例え国を統べる相手であったとしても必ず履行しなければならない約束事だ」
「操ろうとしないでください。見てくださいこの光景を。貴方は多くの命を………それは間違いないのです」
「本当に私がこの光景を作り出したのだろうか? 私は龍下が理術を唱えよう全身に力を籠めるのを見た。唇が動く前に、それを止めるには私も唱えざるを得なかった。結果として彼は、防御理術を唱えたとしても、私は事前に術式を知る術はなかった。少年よ、自分の認識が及ばないからといって、恐怖して人をなじらないでくれ……それとも澄まし返っているのが気に入らないかな?」
「……………」
「君は若木だ。末枯れを知らず、手入れもされている。真っ直ぐに育つことだけを望まれ、そうしてきたのだろう。しかし人はそのまま大きくはなれない。次々と固まり、黒ずみ、悪臭を放つようになる。衰えて、やつれ、必死に永らえようとする。それが人生を歩むという事だ。龍下は龍下である前に個人を捨てきれなかった。そうした者は捨てていかねば、世は転変していかず腐ってしまう」
「貴方は答えようとしていない」
「そうか、気に召さないか。幾ら払えば君のその常凡な憤りは収まるだろうか。金貨10枚?」




