197 冷菓:聖女の余興(8)
理力衝突をまともに受けた顔は灼け爛れ、表皮の下層が露出していた。今生初めて空気に触れたであろう表皮の下には、赤いまだら模様がびっしりと並んでいる。それは血流障害をおこした人体からの悲鳴であり、救難信号といえた。肉の焦げた臭いが漂う中、龍下は片目を無理やり開いた。顔のいたるところに焼け縮んだ皮膚が固まり、眉ひとつ思い通りにはならない。首、耳、額、すべてに鋲が打たれ、磔にされている気分だ。しかし、(まだここにいる―――)地獄に全身浸かりながら、爪先だけで現世に留まっている。(ならば――)龍下は難事を忘却し、ただひたすらに自分の世界に没入する大主教に向かってもう一度理力を集中させた。
その瞬間、編靴の尖端が顔面にめり込んだ。大主教は些かの甘さも持たず、龍下の行動を許容しなかった。
「無駄です。国民の身を案じて防壁を張られたのですね。これ程広範囲のものは局所的な攻撃に弱い。気が急いたのか、耄碌したのかわかりませんが、ご自分の事を疎かになさっては本末転倒ではありませんか……懐かしい痛みでしょう? いくら表現に卓越している私でも貴方の気持ちを推し量る事はできません。どうでしょう、いつまでも健勝であると思いこまれていたのに、一仕事終えただけで終わってしまったご気分は」
レーヴェは片腕に少女を抱いたまま、もう一方の手で龍下の体を引っ張った。勢いのまま肩に胸を押しつけると、反対側から大主教が肩を押した。「顔を見たいのですね」二人の力で傾いだ体は、ようやく天井に向かって開く。真っ赤な顔の中から瀕死の喘鳴が途切れ途切れに聴こえる。まだ生きている。安堵と恐怖でごちゃ混ぜになった感情が一気に噴き出した。大主教はレーヴェの呼吸が異常に増加するのを間近で楽しそうに眺めていた。蟻が自分の体より大きい餌を運ぼうと試みているのを母的にうっとりと眺めていた。
レーヴェに龍下を生かす術はなかった。自身もそれができると思っていなかった。対座する男が放った理術は広間を地獄に変えてしまい、レーヴェと大主教だけが動体している。彼が放った一言によって、全員の人生はいとも簡単に別の方向へ曲げられてしまった。世界と表裏一体をなす龍下でさえ、肺と喉を火に侵され、今にも遠ざかっていきそうだった。
理力を現実喚起させる音の召喚は、発声ひとつにかかっていることを思えば、肺と喉の負傷は致命的な「終わり」である。理力のないレーヴェは理術原理に明るくはないが、今すべてを支配しているのは大主教だという事だけはわかっていた。それでも、ただ己の身を二人の間に投げ入れ、壁になろうとした。体を突き動かしているのは他者を守らねばならないという、ごく単純な尊重だ。自分も他者も大切にしなければならない、それは自他の境界線が薄い彼の持つ美しい気質であり、フロムダール家の子になってなお、培われていたことだった。
龍下が目を見開き、必死に真下を向いている。それが何を訴えていてもレーヴェは彼の体に覆いかぶさることをやめなかった。
潰れた肺の奥に彼の鼓動を感じる。喘鳴が、かふ、かふと首の穴から抜け、レーヴェは必死に穴を塞いだ。(いかないで、いかないで―――)死を退けようとする衝動がレーヴェを不意に駆り立てた。
『…わからない。何を言っているのかわからないよ』
『ここに来た意味はきっとある筈だよ。もしかしたら君のために来たのかも知れない。だから……』
『私のため………じゃあ逃げて…どこか遠くに逃げるの。今すぐよ。それが私の願い』
『君は不思議だ……逃げろというのに、そんな風に握って離さない』
『……だって貴方が初めてなの。ずっとここにひとりでいたから………』
視界は突然切り替わった。
白い壁の連なりを背にして、純白の衣を着た人が立っていた。
泣き笑いの顔をして手を擦る。心根の美しい人だった。
『また逢える?』
『すぐに』
レーヴェの意識はその記憶から急速に遠ざかる。厚い絨毯のひかれた赤い海の上で、まなじり優しくとろけさせる人はいつまでもこちらを見て、立ちすくんでいる。彼女をひとりにしておけない、突然湧きあがった気持ちのままに必死に足を動かした。虚空をかき分けても、床を蹴っても、遠ざかっていった。気持ちだけが彼女を欲していた。
白い世界に厚いとばりが下りてくる。暗闇が彼女の姿を隠すまで、漏らさず見つめていた。
(君は、―――)
レーヴェの目に突然血塗れの龍下が映った。死の匂いが濃く漂う瀬戸際で、レーヴェは白々と光る悲しい人の顔を思い出した。儚く冴えかかる泣き顔は、晴れた夜空にかかる月明かりのようだった。
ずしりと片腕が重くなる―――彼女と同じ純白を抱いた腕が、確かな命を感じ取った。




