196 冷菓:聖女の余興(7)
「滅びよ」
「隔てよ、―――――」
音がまだ響き終わらぬうちに、大主教の手から放たれた光は龍下めがけて一直線に飛来した。広間は眩い光に包まれ、人体をひったくるような大きな震動が起こった。レーヴェは一瞬のうちに目が眩んだが、目の奥が完全に白くなるまえに、少女の上に前のめりに倒れ込んだ。自分の体の下に彼女の腕や足をおさめようとたぐり寄せたが、そうする充分な時間はなかった。緊迫が轟音となって蹂躙する。頭の中で音がぶつかりあい、顔をしかめることしかできない。体の内側がぐらぐらと沸き立って、破裂してしまうような恐怖を覚えた。歯を食いしばって耐え続けると、頭上を熱風がさらった。せりあがってきた不快を、首を伸ばしどことも分からず吐き出す。柔い絨毯を掴んでいた拳が彷徨い、少女の手首に触れた。彼女の腕は片手で完全に掴んでしまえるほど細かった。
光が小さくなるのを瞼の裏で感じ、耳鳴りをおして目を開ける。龍下の存在は背後に感じられる。胸の下にいる少女もまた倒れたままの姿でそこに在った。押し付け過ぎた体を少し浮かせるも、白布の少女はうめき声ひとつ漏らさなかった。本当に死んでいるのか、確かめることはできなかった。理力のない自分にできることはないのだと思い知る。
「うぐッ!」一瞬弛緩した体に突き抜けるような痛みが走った。指先ひとつ動かすことができず、再び彼女に覆いかぶさって息を止める。
(せなかが、…背中が熱い…!)
身体が煮えたぎる感覚が、息の詰まるような速度で迫ってくる。先程とは比べ物にならない激痛だった。このまま痛みに集中するだけ体は動かなくなると本能で悟った。龍下はどうなったのか。みんなは。父上とシャルルの顔が浮かび、気持ちが高く持ち上げられる。あとでいくらでも痛がればいい。痛みなど忘れろ。手のひらで床を押し、片耳を少女の背中に押しつけながら体を起こすと、レーヴェは広間に何も音がないことにようやく気がついた。嗚咽も哀切も一切存在しなかった。
土埃が立ちのぼり、金色の粒子が漂っている。それは理力衝突が生み出した残滓だった。蝶が翅を広げたような粒子が空中で透明な幕を揺らめかせていた。鼻を向けた先、龍下はすぐそばにいた。膝をついたまま動かない。反対側に目を凝らすと、煙の奥に黒い塊が一筋見えた。しゃがみこむ招待客だとレーヴェは思った。煙は段々と薄れていき、その塊を明瞭に映し出した。願い通り数百人の招待客はそこにいたが、強い風に折られた葦原のごとく一方向に倒れていた。身を寄せ合っていたわけではない。顔を恐怖にしかめ、口を大きく開いたものばかりだった。起き上がっているものなどいなかった。みな、動かない。全員、しんで―――
―――――レーヴェは全力をもって拳を叩きつけた。骨が折れようとも、噛みしめた唇が切れようと構わなかった。今この瞬間正気を保つためにはそうする他なかった。父やシャルルの姿を探す。眼に悲しみが殺到してすぐに総てが歪んだ。
「たった一度の詠唱でこの威力とは……まったく…? これは……この苦労は、久方ぶりに味わう……」
レーヴェは金色の靄の向こうに立っている白髪の男の顔を目で捉えた。男は眉間に皺を深く刻み、唸りながら指先で目尻を叩いている。うなだれたまま動かない龍下の背中に手を伸ばすと、襞状に重なった白い服地を指で引っ張った。どさり、と怖ろしいほど容易く老体は倒れて動かなくなった。
「龍下…!」つっかえる喉を震わせ身を揉みしだく。白髪を避けて顔を叩くと、目が細く開いた。まだ息がある。唇が動いたのをみて、首をよじって顔を寄せる。
大主教は編んだ髪をほどくと首を左右にふるわせた。とぐろを巻く髪をかき上げて、まだ何か呟いている。
「きりがない。計算?……なんと、理術とは音波による伝達、詠唱は空気を溶媒として…………瞬時に計算をして…? ほう、このような……あぁ、若いとは……これほどまでに………」
自分の足元だけが照らされているのだというように、男は恍惚を浮かべていた。
血に塗れた床に頭を押しつけながら腕を持ちあげる龍下に気づき、大主教は興醒めですと一言呟き、冷えた目を向けた。
「今それどころではないのです、手を煩わせないでいただきたい…それともその頭蓋を開けば、中身に計算式でも刻まれているというなら話は別ですが」
獰猛な顔つきをした龍下は吐血し、納屋に横たわる家畜のように唸った。今すぐに地を蹴って、喉元に食らいつきたいという苛烈な気概が顔面から失われていくのをまざまざと見る。絨毯に新しい血だまりが生まれる。
レーヴェは胸元に少女を抱き寄せて這い寄った。両手両脚を投げ出したままの少女は、白布を波打たせながら引きずられ、レーヴェは彼女の腰をしっかりと掴んで、足で交互に床を蹴り上げた。みじめで一層ひどい前進だった。
大主教は訝しげに首を傾げ、それから龍下の前に膝をつくと顔を覗き込んだ。




