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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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195 冷菓:聖女の余興(6)

「おやめください!」


広間を斜めに横切り、最奥に向かって星が流れ落ちた。呆ける侍従を押しのけて、龍下の視野にひとりの青年が飛び込んできたのだ。観衆の中からよく通る声が彼の名を呼んだ。「レーヴェ!」

介入者を舞台から降ろそうと執行者が両側から掴みかかる。彼は怖がることもなく、それどころか苛立って肩をまわして振り払った。「龍下、理術を! はやく!」ディアリスが何かを言って執行官を下がらせる。青年は彼女の背中に膝を乗せると、真っすぐに伸ばした手を垂直に押し当てる。白布の衣裳に沈み込む手はすぐに血に染まった。傷口を圧迫しながら顔をあげた彼は、再度怒声をあげて治癒を迫った。


行動を放棄している大多数に比べれば、青年の行為は格段の相違といっていい。生きる上で欠かせないものになった教会の教職者たちは、「龍下」「大主教」「司祭」などと呼ばれ、その存在自体が神意に基づいてるとされている。教会に集まる尊敬や、施しに対する感謝によって構築された信頼の塔は、今や天を突き抜けるほど高くなってしまった。

こうして口も聞けない少女を傷つけ、辱めるような人の道にもとる行いも、何かしらの理由があるのだと無理やり納得させる空気がある。とりわけそうした職位区分を活用してきたディアリスにとって、観客は一種の感情装置に過ぎない。依然として高みで佇む男は、顔を戸惑いで歪め、それでもいまだ踏み込むことを怖れる観衆を弄び、行動を導くつもりでいる。教職者の言葉があれば、数百の思考が一挙に志向性をもつことは確かだが、果たして彼らは一群の羊であるかといえば答えは決まっている。


突如現れた青年は、聖性の反作用にたった一人反抗してみせた。他者を圧倒させる熱量はそれ自体が彼を表す美しい発露だった。青年のあまりに生命力に溢れた出来栄えは、この世の殆どを色褪せて見せる。

龍下は青年の慈しみを嬉しく思った。怒りに駆られて命令する言葉の鋭さは、彼が彼女を心から案じていることを示していた。言葉の槍で必死に大人を動かそうとするその善良さは、たとえ愛しい人が既に息絶えているとしても、心臓を真綿で包み上げるような優しいものに感じた。


「いい、もういいんだ……許してやりなさい」


それは青年に聞かせる言葉ではなかった。

するりとこぼれ落ちた心根に、強張っていた全身から力が抜け、柔く笑いながら青年の手を取ることができた。他者に許しを与えなければならなかったのは自身であると、自覚が胸に落ちていく。


互いの手に付着している血はもう固まり始めていた。彼は小さく首を振り、唇を結んでさらに強く振った。その時はっきりと青年の顔が泣き顔に変わった。左右に揺れる艶のある髪は血潮のさわぎが治まると、おあむきざまに倒れかかる。ぼたぼたと涙が散った。あぁ――たまらず袖を引いて抱き寄せる。悲痛に直結する無垢な魂を抱いていると、長い間手離していた別離の悲しみを取り戻せたような気がした。くぐもった声が聴こえて、背中をさする。何度も何度もさすった。


分かち合う二人の前に美しい光がたちのぼった。愛し子の傷口から漏れだした光は、彼女の真上に憩う。それは幾千回も見送った彼女の理力の光だった。視線に応えるように光は列を成して近寄ってくる。少し頬に触れたような気がして、嬉しくなった。

別種のどよめきが走ったことに気づいて、青年は泣きぬれた顔をあげると、光を見て大きく口を開いた。光は一瞬、息を詰める彼のまわりと取り巻いたと思うと、素早く壇上に向かった。人の世の主のごとく立つ男の祭服に光球が吸いこまれる。痛みも物体的な感覚も生じず、膨らませた肺いっぱいに光を吸いこんだディアリスは観衆の前で喉元をさらした。嚥下する喉は汗ばんで、照明の光できらきらと瞬いていた。


青年は訳も分からず助けを乞うように龍下にすがった。世界が壊れてしまったのだ。目の前で無残に殺されてしまった女の子が不憫でならず、憤りをぶつける先の男は悪びれるどころか、多くの執行官に守られている。そんなことを許してはならないのにどうして誰も咎めないのかわからなかった。許せない――そう思うと一際胸がざわめいて、背中がきししと痛んだ。きしし、きしし、骨の奥で蠢くなにかが心を急かした。


唯一彼女に駆け寄った龍下は、同じ気持ちでいると思った。それが教会というもので、龍下というものだと教えられてきたのだ。

龍下は最後まで大主教を見ることなく、床に伏す人の手を取り、甲を愛おしげに撫でた。長い口髭に覆われた口元が何かを呟いた。音にならないそれはきっと彼女の名前なのだろうと察して、また涙がこぼれた。


「………これが貴方が隠していたものですか、龍下」


ディアリスは渇いた声でそう言った。手のひらをじっと見つめて、握りしめてまた開くことを繰り返した。それから龍下を見て、「とても甘美な味わいでした」と言った。暗喩であることは龍下だけが理解した。

その直後、龍下の背中でレーヴェはうっと短い声を漏らした。龍下によって腕を引かれ、ほとんど倒れながら床に押しつけられる。庇われたのだと、彼が理術を発動させたあとに気づいた。

つづけて、二人の男の声が響き渡った。






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