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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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194 冷菓:聖女の余興(5)

龍下は大主教の頬を打とうとした手を翻し、傾ぐ女の背を掴もうと伸ばした。靄がかかったように曖昧になりかけた思考は視野の中央に伸びる自分の手を若々しく映した。たるんだ皮も所々ある黒ずみも、すべて弾き返した若い肌は彼女と揃いのあの頃のものだった。指先は清らに白い面紗をかすめたが、あっけなく距離を離した。手のひらのくぼみに空虚を擦り上げると、瞬きの間に深い皺だらけの手に戻った。単純なことだ、一歩も動かずに掴めるわけがない。絨毯に張りつく足を茫然と見下ろすと、甲高い悲鳴があがった。愛しい女は段差の上を滑り、顔や胸をしたたか打ちつけて倒れた。死んだのである。


「リ、」


それは理想的な光景だった。見守る数多の人目は、これから行われる新生を目の当たりにする。

六百年ほど前、高山の牧場で同じ光景を見ていた。彼女は荷馬車の後ろに腰かけ、藁に背を預けながら鼻歌を歌っていた。帽子のつばを持ち上げると、小石の混じる砂路のずっと先に一軒屋が見えている。あと幾度折れ曲がって登っていくのだろう。疲れていないかい、彼女に訊ねると、返事とばかりに鼻歌に歌詞がついた。清々しい高地にはゆるやかな時間が流れていた。目指す頂上には代々羊飼いを営む家族が住んでいて、明日は朝から剪毛で忙しいという。霧が流れて、一瞬遠くの山が見えた。青空はすぐそばにあって、息を吸うと喉の奥まで冷え冷えとするのである。いくつかの池塘をすぎると、短い草を食んでいた羊が鳴きながら付いてくるようになった。これでもかと盛られた体毛から小さな足が伸びている。綿毛みたいね、と彼女が笑う。可愛いと返したけど僕は君ばかり見ていたよ。


彼女が足を振る度に振動が手綱を握る僕にひっきりなしに届く。もしも大地に触れて穢れでもしたら僕は君の足を舐めなくてはならない。注意しようと振り返ると「だからしてるのよ」と先に笑われる。羊の数が増えると、彼女はとうとう飛び出していってしまった。新緑が這う草原で彼女は裾を乱しながら夢中になって踊っている。その周りを羽の生えた羊が飛び跳ねる。その姿の可憐さというと人も殺せそうだった。僕は彼女の魅力がこれ以上強められないように願うが、神はこの孤独な願いは叶えずに放っておく。こまるなぁ。


一軒家の前では夫婦が手を振って待っていた。足元には小さなこども。まだ三つになっていないんだろう、小さな口に鉄を咥えているから怒っているように見える。すぐ板場に案内してもらい、まず白木の床に残った藁と短い毛を箒で掻き出した。人が立てるだけの場所を作ると彼女は僕に紐を差し出した。麻紐で丁寧に手首を縛り、反対の端を梁の上に紐を投げ渡す。見慣れているだろうに彼女はまた「上手ね」と褒める。僕は言われ慣れているのに、やっぱり照れてしまう。むずむずと動く唇を結んで、ぐっと紐を引く。梁がぎいぎいと鳴って屋根全体がしなった。後ろで見ていた夫は「大丈夫です、多分」と言うので、そのまま引き続ける。


彼女の腕が少しずつ持ち上がって足まで完全に離れると、夫が前に出て、鎌で最初の傷をつけた。彼女は切りやすいように腕に間に頭を通して、仰け反る。


「羊をころすとき上を向かせるってほんとう?」


柵の前に集まる羊は長い睫毛のしたにある楕円の目で、吊られる彼女をじっと見つめている。鎌を僕に手渡しながら夫は帽子を脱いで顔を扇ぐ。一仕事終えたのだ。やりきったという満足そうな顔をしていた。


「最期くらい空を見させてやりたくて、首のところの皮を掴みますよ」


夫の手が首を掴む仕草をした。彼女には見えていないのに、なにをしてもまず体が動いてしまうのだろう。「そうなの」彼女は少し首を戻した。


「残念ね、ここじゃあ空が見えないわ」


時折笑うように空気を噴き出して、「くすぐったい」と身をよじる。滴る血は彼女が揺れ動く度に、足元に大小様々な赤い花を咲かせた。彼女はしばらく羊や山のことを聞いたあと動かなくなった。紐を解いていると羊が一斉に鳴いたので、泣き叫ぶような声がしばらく耳に残った。


――


広間に集う豪奢な"羊"がごうごうと騒いでいる。二足歩行の羊を見て、彼らが人だと気づく。はたと正気に戻って彼女のそばに膝をつくと、泥濘の音が返った。にこ毛の中に染み込んでいた血が真っ赤な池塘を作り出していた。あの日草原を踊っていた彼女のことが昨日のことのように思い出された。


背中から短剣を抜き取る。血は噴きださず傷口を埋めるだけだった。息絶えている彼女を見下ろし、瞼を閉じる。深呼吸すると、あの頃と変わらぬ美しさを吸いこんだ体が重くなった。

君を支配しようと画策した禁欲的なあの大神官も、君を得るためだけに妖精の森をひとつ焼き払った暴虐の王も、腕を火打石で切って血を啜ろうとした礼儀を知らない祭司も、君を奪おうとする者は皆殺しにしてきた。奴らの首に手をかけて骨を砕いても、憎しみの火は燃え滾っている。同じように後ろの男を殺したいと思った。実行する理力はあり、無詠唱で発動する禁忌の呪文も頭に浮かんでいた。






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