192 冷菓:聖女の余興(3)
水塊の天辺に十字の溝が入り、口腔を裏返すように破裂していく。表面から白く細かい粒が噴きだして全身を覆った。動いていないかも知れないと錯覚するほど水との距離は離れていたが、落下速度は星に引かれる重さと空気の抵抗によって雨粒のそれよりも格段に速い。それは流体に定められた平凡な動きの融合だったが、人は洞察力や理性の高さゆえに現実におこっていることだと処理をすることができなかった。街の大半を覆う丸い海は暗い感情を呼び覚ましていく。すさまじい恐怖を感じて毛が逆立ったが、茫然とする思考は体ごと硬直して逃げる事もできない。
あれほどの塊が落着すれば、横に押しのけられた周囲の水が高さを持って小島や市街におよぶことは明らかだった。みなが不鮮明な言葉をつぶやくなかで誰かがはっきりと「街が!」と言った。それは愛する者をもつ者の悲鳴だった。恐怖に呼応するように大主教を振り返る者達は不安や怒りを誰にどう向ければよいかわからない。片腕をあげる女が何かをしているとは到底思えなかった。
すると窓硝子が轟音を立てて砕けた。破片はひさしの向こうにまで飛び散って、生温かな風が枠だけ残った窓を吹き抜ける。龍下や大主教らの前に執行官が壁を作ったが、主人たちはまだ落ち着き払っていた。
――――聴いたことのない轟音が響く
塊の先端が水面に衝突し、人々は大地が揺れ動くのを感じた。球体は楕円へと変容し、発生した振動はヴァンダール全域を押し揺るがした。立っていることは困難だった。弾かれた水は均一に押し出され、円状の新たな壁が噴き上がる。あれが動いている波だとは遠目にはわからない。高さを増しながら近づいてくる水面を見ていると、目の奥が熱くなり、指先は冷たくなった。今我々は塵芥にすぎない。頭の中を離れていく歳月が、空しく、愛おしい顔を隠していく。自分はもはや神の前には無力なのだと思わされた。蹴立てて後退る招待客はあっけない終わりを想像したが、そうはならなかった。
水は小島の手前で何かにしたたか阻まれて形を変えた。ひとつの流れとなって、建物を飛び越えて抜けていく。そして、そのまま戻ってくることはなかった。水は天に向かって流れていった。逆さの滝は市街の方にも現れ、天上で再び折れて戻ってくる。まるで真上に投げた石が曲線を描いて戻ってくるように、水流は空を泳いでいた。
体中に吹きつける風を楽しみながら大主教は笑った「なんと美しい龍だろう」
「龍」「龍……?」「あれは、龍なのか」
共通の認識を求めて人々は囁き合う。
ちょうど雨雲が途切れて、満月が顔を出した。紺碧の空からそそぐ美しい月光はとぐろを巻いて漂う龍を輝かせる。
もしも、もしも"神"が生きていたら、羽衣の翼を広げ、こんな風に潮騒をまとうのだろう。ただ眺めていたい。本能が命じたのはそれだけの理由だった。視線をそそぐほどに、龍の向こうに自分の心が見つめ返される。水だけで描かれた龍の顔には目も美しい鱗の模様もなかったが、命があった。だからこそ興奮で打ち震えないものはいなかった。
心の底から汲みつくされていったものは、"生きる"という本能的な執着だった。今を生きているのだと、人々は耳を打つ自らの鼓動に聞き入る。怖ろしさはもう既に吐き出されてなくなっていた。
水龍は波の音を引き連れて広間に乗りこんできた。「うわぁ!」と大声をあげて仰け反るもの、頭を押えて丸くなるもの、大急ぎで口を塞いで息を止めるものなどさまざま見られた。当然巨体は広間に入る前に、窓枠や天井に阻まれたてばらばらに切り離されたが、龍というひとまとまりの概念に貫かれたまま飛び込んでくる。天井をうねる龍は照明の光を取り込み、とぷとぷと揺らめく。何に触れても痕跡も残らない。水は龍という形を保ったまま、女の頭上をゆるりとまわり、大きな風で彼女だけを抱いたあと飛び去って行った。あとについて外に出た者達は姿が消えるまで祈り続けていた。
「皆さん……これが濫觴の民の力です。この娘を、龍下はアクエレイルから帯同くださいました。ヴァンダールに彼女の神秘を与えるために」
手を取り合って再び集まってくる老若男女は歓声をあげた。賛美と敬愛の声が重なる。いささか過ぎた驚きは徒労を伴ったが、神々しい光景を記憶に留めることで忙しい。あらためて大主教の手を取る女を烈しく見つめる。
風に遊ばれた面紗は彼女の面差しを隠してしまったが、大主教はもう二度と面紗をあげようとはしなかった。
「ディアリス……」
擦れ声が男を呼ぶ。汗ばんだ招待客は、龍下の錯乱など忘れていた。彼が何を守ろうと必死になっていたのか、艶やかな装いの下でうなる男の執着にも生臭さにも気づいていなかった。大主教は常に誰かを笑みで出迎える癖があったが、今ばかりは背後から刺殺しなかった男に敬意を払い、真剣な顔で振り返った。歓声に紛れて二人は厳粛に話し始めた。




