191 冷菓:聖女の余興(2)
謁見の場に跪く白布の男を見て、人々は最初に恐怖を抱いた。しかし彼が覚束ないさまを見せる度に同時に感じていた全能もまた薄れていった。不安定な言動から憐憫を感じる者も出始める。反対に、龍下の前でどうして物事をはきはきと答えられぬのだろうかと怒りを感じる者もいた。最後に美しい翼が暴かれると人々の知覚は再構築された。驚きと畏怖に結着した者、神秘を感じて祈った者、異質さを怖れた者―――無数に枝分かれした概念は、人という器の中で醸成されている。このように大主教の言葉の影響や、男が誰かに危害を加える意図があったか否かにかかわらず、男の評価は常に変動していた。
そして今、「白布」で顔を覆った者は彼女だけだった。
翼の男が被る布は何物でもなくなった。いかに翼を持ち、稀有な種族の生まれであろうと、今すべきことがあるとすれば黙りとおすことだけだった。
彼女はあらゆる眼の動きを誘ったまま、最奥の壇上へ、腕を伸ばす大主教の元にのぼった。白布の男が死んだ蝶だとすれば、女は妖しく飛ぶ生きた蝶だった。その美しい後姿からは鱗粉が零れ、落ちる方向が定められている水のように押し流されて広間中の男の感情を揺さぶった。これから何が起ころうとしているのか、誰も理解していなかった。瀉血するような息苦しさと、女がふりまく常軌を逸した魅了が見る者の心をかき乱した。白布の女は大主教のそばにとどまり、命ずるままに後ろを、招待客の方を向いた。
大主教は女のかげに寄ると面紗の中へ、その指を悠々と潜りこませた。横ざまに膨らむ唇が薄絹を押し上げて、滑らかな白布の傾斜に鼻先や唇の尾根をつくりあげる。女の細い首に、男の生き様のしみた腕が絡む。節の目立つ指があごを撫で、唇に達した。
「皆さんは、"にんげん"―――という、民族のことを御存じでしょうか。教会でその名を聞いたことがある者、もしくは親、祖父母から寝物語に聞かされた方もいるでしょう。"にんげん"は許容できない大罪を犯しました。そう、かつて神をその手で葬り、あまつさえ、その命を、翼を、身体を食らった。彼らは聖性な血肉を取り入れることで魂を取り戻すことができると考えていたのです。その独創的で直感的な概念を神に当てはめた結果、神は骨に成り果て、魂は大地に消えてしまった……その後、"にんげん"はどうなったでしょうか…? 彼らは多くの戦いを重ねて、衰弱し、滅びの道を歩んだ。けれど魂の廃絶までは至らなかった。にんげんは罪を償わぬまま生きて、私達と同じ時を貪っている。それは許されることなのでしょうか………」
面紗が少しずつ持ち上がって、男が望むままに肌がさらされていく。それは幽玄というほかなかった。
「我々教会は、彼らのことを「はじまり」を示す言葉で呼んでいます」
―――――濫觴の民、と。
白布の裏から成人とも少女ともいえぬ女の顔が現れたとき、龍下は人々の顔に恍惚が浮かぶのを見た。きつく震える拳を握り直し、また開くことをゆっくりと繰り返した。怒りさえ逃せればそれでよかった。大主教は背中に憤怒がかかる度に、女の頬をしとねに指先を遊ばせた。耳元に顔を近づけて、顔を覗き込むようにして言った。
「さぁ、ご挨拶をなさい」
真後ろに男を従えたまま、女は片手を胸の高さまで掲げて真っ直ぐに伸ばした。肝心な部分を避けた男の奥あり気な声に、女は確然となすべきことを悟っている様子だった。いっこうに面白さもなさそうな冷たい顔が海辺を向いて、あれよあれよと視線の先から人々が散った。壁面をうめる硝子戸はすべて締め切られており、四角く切り取られた夜の向こうに雨雲と暗い海が広がっている。女はじっと弓弦のように張った指先を見ていた。ふと招待客のひとりが空と海の間に目を凝らした。空に無数の光が煌めいて見えたのだ。大聖堂周辺の建造物から伸びる光が水面に映っているのだと思ったが、それらは随分と上にある。他のものと同様に眼探った大主教が残念そうに「暗くて見えぬか」とあっけなく呟いた。やむなきといった風に腕を掲げた大主教の手から、小さな日向の球が生まれる。浮遊して外へ出た球は岸壁を通り過ぎたあたりで分裂し、更に無数の小さな太陽となって浮き上がった。小島よりもさらに上の位置にある海とも雨ともいえぬなにかが照らし出される。それは空に浮かぶ巨大な水の塊だった。陶器の入れ物もなく、水だけが浮かぶ異様な姿は絵だと疑われた。眺めれば眺めるほど引き込まれる暗い水は、困惑を極める人々の視線を飲み込み、恐怖という余韻を打ち返した。窓辺に顔を寄せていた男は崩れ落ち、続けて女も気を失った。すかさず婦人を支えた男が、大空を見あげて叫んだ。
「海が…! 割れるぞ!」
それ以外に形容する言葉などなかった。それは空中に現れたもう一つの海だった。




