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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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189 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(10)

ディアリス・ヴァンダールが龍下の座す最上段に寄ると、その鼻腔に花の香りが一際薫じられた。柑橘類に似た爽やかな香りに包まれ、老人は立ち上がることも微笑することもなく、怒りと悲しみを混ぜた不明瞭な顔をして出迎える。ヴァンダールは皮肉な目で老人の頭から足先までを眺め、それから空っぽな玩具のような決まりきった薄笑いを浮かべた。

広間に伝播させる為に使用されていた拡声理術は断ちきられ、術者も下がった。侍従も執行官も離れ、純白の三衣に司祭冠を戴く男と無冠の男だけが向かい合う。


「龍下、私が申し入れたいことは初めからはっきりとしています。仰る通り、ハウエル司祭の身体的な変化についても、ディオスさんの研究と同じく慎重に検証を重ねる必要があるでしょう。後天的な種族成長を目の当たりにした時は私も信じ難く思ったものです」


まだ言い募る男の瞳の中に陰気な炎があった。龍下は言葉を聞き終わってから静かに首を振った。


「それ以前に彼の言動が不可解であることが気にかかります。私と手紙のやりとりをしていた頃、彼は絶望に苛まれていましたが、それでも理知的に考えることも止めなかった。彼の苦悩が色濃く表れた痛ましい文章は少しずつ好転していった……しかし今の彼は……幼く、情動の在り処を失っている。あれらの症状はどういうものか、貴方もよく知っている筈です」

「えぇ。教会で預かる浪客の多くは心を患っていますから、世間に求められなくなった者の末路はよく目にします。だからこそ、そうした疾病には多くの変種がある事も知っているのです」


変種と聞いた瞬間、嫌悪が瞳に滲む。目の下が痙攣して盛り上がった。老人の蔑みを受けてもなお、大主教は痛痒を誘い続けた。


「未解明の難題に取りかかる事よりも、心の慢性疼痛を和らげることを優先すべきです。貴方にもそうして欲しいのです、ディアリス」

「そうでしょうか。釣り針にかかった魚の痛みを嘆く者はいません」

「いいえ、私は感じる心がある限り祈ります。それが私の生きる意味です」

「それは相反というのです。理力という私達の身体的な予算の上限を越えられるかも知れないのです、龍下。我々は自身の事をもっとより深く知る必要がある。これは気分や趣向の話ではありません。私に委ねてください。貴方は今まで通り迷える民のしるべとなればいい。あとはすべて私にお任せください。聖典を書き換えることも、()()()()………………そう、()()()()


大聖堂の上空に分厚い雲が迫っていた。天と地をわかつ雲は、月明かりを遮り、夜の海を静かに渡る。もうすぐ嵐がくることを察知して雨戸を閉める愛おしい市民の姿が浮かぶ。

誰もが明日公布される新法を待ち望みながら眠りにつく。世界が、明日が、よくなるものと思って疑わない無垢な願いをディアリス・ヴァンダールは叶えなくてはならない。彼ら彼女らの安寧を守る宿命があると自負していた。親指を口に含んでうつらうつらする赤子も、闇の奥に隠れて明日を恨む浪客も、おしなべてヴァンダールという巨船の中に連れて行きたいと願っている。捌かれた鶏肉のように縮んでしまったこの老いた身は、まだ応えようがあった。


龍下は突然立ち上がった。青白い頬をしたまま、虚空に手を伸ばして執行官を呼んだ。今にも胸倉を掴み上げ、やみくもに回したいと暴れるも、何もできない焦りに目を回す様子を大主教は快活に笑って見守っていた。


「執行官、誰か! 尖塔の最上階に向かいなさい…!」

「あぁ――――龍下、私が大聖堂の頂で起こったことを知らないとお思いだったのですか? 血の臭いは尖塔の階段を這い下り、私は深刻なほどひどい気分に陥りました。貴方が飼っている気でいる医師たちは私の領地に住む者たちなのです。貴方は私のものを侵したのですよ」


龍下の目が今度こそ苛烈な憎悪を宿した。急激に冷めた瞳は、青い炎のごとく燃え上がりヴァンダールを取り巻いた。強烈な花の匂いに隠された死臭が二人の基底をめぐる。


「……彼らは私が知る限り、最も有望な医学的貢献者です」

「同意しましょう。忘我の境から戻って来れぬほどに最も画期的な研究に続けていることも知っています。彼らを責めないでください。彼らは私も同朋だと知ると、刺激と反応に駆り立てられてこれまでの研究の成果を説明してくれました。とても熱の入った夜が幾夜も続いたものです」

「研究者は他にもいる」と素早くそれだけを言い返した龍下の必死さは、大主教の自尊心をくすぐった。

「誤解なさらないでください。私は貴方様の行動を妨げようとは思っていないのです」

「私に何を望むのです」

「何も。私は私自身を正当に扱いたいだけなのです。その為なら他者を不当に扱うことができる。それらのことは貴方も基づいている単純な"前提"でしょう?」

「他者を不当に扱うと自覚しているなら、それは危害であり、罰せられるものだ。私は誰も不当に扱ったことはない」

「……あぁ、本当に?」


龍下の荒んだ目を流し、大主教は広間の奥を振り返った。執行官らが走り去った方向とは真逆の方向から


―――――"彼女"は、現れた。






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