188 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(9)
大主教の言葉によって身を起こした「転機」は種族と共に生きてきた人々の心の中を駆け抜けた。絶対的な場所にあった「死」に「復活」が取って代わる兆しが芽生えている。その見地へ至った者は一握りだったが、水面に石を投じたあとにできる波紋のように、元始的信仰を揺るがす調べが均等に広がっていった。地上から階段をのぼって天という規律を突き抜けようとする一人の男の姿を、大主教は両手を広げ前進を以て表していた。神秘の中心にいる翼の男を足元に、対するホルミス大主教へ嫣然を贈った。
「見事な翼でしょう? ホルミス大主教。そこに控える従者より、貴方と司祭が地下祭壇を見学されている最中に変貌が起こったと聞いています。どうしてこのような奇蹟が起こったのか説明していただけますか」
「……司祭とはいろいろ雑談をいたしました。凄惨な過去をどのように乗り越えるか、そのようなことを主として話しました」
「植物は直前の気候に影響を受けるというのなら、彼の肉体に影響を及ぼしたものについてもおのずと答えがでるように思います。失った手足が再生することはないように、羽や爪、角などの種族的特徴も再生することはない。彼の身に何が起こったか、説明する義務が貴方にはあるのです」
「お引き受けいたしかねます。この場で明確にする必要性を感じません」
見るにも聞くにも耐えないといった堅い表情でホルミス大主教はそれきり瞼を閉じた。祝宴の場でする話ではないと全身でヴァンダール大主教を拒絶しているように見えた。
ヴァンダール大主教は怒りに昂るかと思ったが、腕を下ろした大主教の背は微風に運ばれる丸まった鳥の羽のように、あっけなく命を終えたように見えた。真実かつ大事なものとして扱っている宝物を値打の無い雑多な道具だと断じられた子供のような侘しさがそこにあった。
喧嘩をした両者に長い棒の端と端を持たせ、村の中央に聳える大木に叩きつけて割る。そんな風習がディオスの生まれた村にあった。同じ棒を持つことで手をつなぐことを表し、共同作業を行わせることで一つの成果を共有させる。怒りやわだかまりは棒とともに破壊され、わかたれた魂は元に戻る。長い時を掛けて受け継がれた儀式は、どんな憎い相手でも受容しなければならない理不尽なものだった。当時の苦しみが思い出され、内側で燻る熱が騒ぎだす。風習とは誰の為にあるものなのだろう。誰を幸せにするものなのだろう。
人々はそうして「共感」という手法で、何かを願い合ってきた。雨を乞うために水を撒き、不幸をもたらされない為に先んじて他者に不幸を与える。生贄という文化。おそらくヴァンダール大主教は今この時、思考のすべてを妨害させるわけにはいかなかった。自身が最善と考える方法で、混乱を作り出し、いつ拒まれるかわからない時間を使っている。想像よりも泥臭い男なのかも知れない―――そう思うと、ディオスは身を乗り出していた。
彼の名を呼んだ小さな声は、彼だけを振り返らせるに充分だった。
愛しいほどの小声に驚いた彼は、目を細めてディオスを見つめる。ディオスは言葉を失い、唇を噛んだ。何も伝えられることなどなかったからだ。目的もないまま手段に投じた唇に注目されて、途端に居心地が悪くなっていく。しかし照明に遮られ、陰になった彼の顔は一段と老けてみえて、いっそう悲しくなった。
ディオスは想いに挫けて、頭を垂れて視線を逸らそうとした。けれど踵で床を押しつけ、いつも通りにしようと努めながら胸を張った。それが今できる唯一の「共感」だった。一見何か含蓄のあることを言いそうな顔をしたのが悪かったのか、格好のつかない男を面白がったのか、大主教は相好を崩した。丈の高い場所から笑い声が漏れていく。苦痛を逃がすような下手な笑い方はおそろしいほど彼に似合っていた。ディオスも不器用な笑みを返した。彼は確かに頷く。二人の間に共感があった。
「龍下。理力を増加させるすべに辿り着いたディオスさんは時の先駆けとなるでしょう。そして、種族的特徴を成長させた司祭もまたそれに続く。龍下、我々は無意識的に共有していた観念的限界を見直さねばならないのではないのでしょうか……彼らは時を告げているのです」
龍下は首の詰まった祭服に乗せた顔をかすかに振った。眉をしかめて、群衆を、ヴァンダール大主教を見た。
「はっきりしない段階で明言することはできません。検証し、同様の結果が見られるまで測定する方法を精査し、指標を表して、それでもまだ足りません……それにそのような問いを投げる前に対処しなければならない事柄があるように思います。ハウエル司祭に外套を」
白布を広げた従者を見届け、龍下はさらにヴァンダール大主教を手招いた。




