187 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(8)
白布の男の挙動は色々な兆候を含んでいたが、それを読み解くには主観性を排する時間も、相応しい場所も整っていなかった。
招待客は最早観察者となっている。男の動き、定かではない口調、未知の白布の下で落ち着きなく動く腕、考えうる組み合わせの多くは男を危険と見做していた。龍下に襲い掛かることはないだろうか。大主教に、または突然後ろを向いて理術を唱えるかも知れない。考えられる姿は多すぎる。
「ヴァンダール大主教、彼との親交を温める機会をくださってありがとう」
謁見の終わりを示す言葉を皮切りに、何かを待っていた大主教は立ち上がった。祭服を引きずる男の後ろに波頭が立った。赤い海は刺激を受けて波打つ。
何食わぬ顔で視野の隅に分け入る大主教に、龍下は鋭い視線を注ぐ。男は二度目の発言許可を求めず、広間を見まわしたあと本題に入った。
「龍下。私が見ていただきたいのは、この者の外衣の下に隠されているものです」
「……私はこれ以上引き止める必要はないと感じています」
「どうか。痛ましい記憶や傷を衆目に晒したいわけではありません。私の真意はホルミス大主教もご存知の事と思います」
対面に腰かけていたアーデルハイト・ホルミスは目を細めた。
興味のない芝居を最前列で眺めていた美丈夫は舞台の上に引き込まれる。ヴァンダール大主教は意図的に境目を動かすことに長けている、そう分析しながらディオスは殆ど本能的に男の背中を見つめていた。見ていてくれ、そう言われたことが無意識のうちに結んだわけではない。彼の持つ基本的な特徴。時の流れを感じさせる肌、自信のある物言い、重ねた祭服の重みを物ともしない力強さ、色の抜けた髪や流暢な発声、その他多くの彼の特徴が形や色を浮かび上がらせ、最後には彼自身を強く認識させる。人の死を確かめるために口元に鏡を宛がうような合理的で情の無い一面と、たかが医生ひとりの言葉に綻んで見せる優しさが内在している。彼を彼たらしめる要素が、ディオスの脳裏に繰り返されていた。
(彼を彼たらしめる要素………人の持つ複雑性……人の……)
ディオスは論文を書き終えたあと、毎夜まだ見ぬ先の事を考えていた。植物を通した理力伝導は始まりに過ぎない。次は人体と人体を通じて伝えられる相互反応について注目すべきだと。理力を受け取ったときの速度や拒絶反応はまばらであり、術者の残留理力の度合いによって効果も異なる。つまり、最良の条件が揃ったとき、人は未知の領域に達するのではないか――――胸元に隠した理力石が熱を持っている。そんな気がした。
「……どうして私が?」
「彼が外衣を被らねばならなくなった日、教会を訪ったのは貴方だけでした。それは偶然でしょうか?」
「そこまで芝居がお好きだとは知りませんでした。回りくどい台詞も様になっていらっしゃる」
「おそれ入ります」大主教は笑いながら言った。
彼は頷いて退くと「では先にご覧いただきましょうか」と、白布に体を向けた。にんまりと弛んだ視線に応え、従者が白布を取り払う。まるで行いが予め決まっていた流れであるかのように、視線だけで物事が進んでいく。そうか、と気づく。見ていてくれと言われた意味を。
(――――!?)
照明の下、きらきらと何かが輝いていた。男がまとう白色の繊維があらゆる色を奪い、虚空の彩りさえも戯れに化したのかと思われた。それを成したのは翼だった。男の背中に一対の翼が濡れ髪のごとく張りついている。
鳥類の翼と同じく小さな羽根が美しく折り重なり、表面は異なる部位にわかれて盛り上がっていた。己の手で触れたこともないのに、一定方向に撫でると柔らかなその感触を誰もが知っていた。
この時ほど男の側頭部に大きく残った火傷痕が捨て置かれたことはないだろう。大きな翼は司祭服には収まらず、男の首裏から腰ほどまでは衣服が削ぎ落されている。呼吸する彫像のようだった。陰気な男が、今は世にもめずらしい宝玉に代わって見えていた。
「……龍下。ご覧のとおり司祭の希少種であるトリパノですが、翼は疫病の惨禍の折に業火によって捥がれ、上部の雨覆が微かに残るだけでした。手の中に収まる程の小さな翼を、彼はとても恥じて、髪と外套で守り隠して生きてきた。ですがご覧ください。隙間なく並ぶ羽根の一片も焼け焦げてはおりません。再び彼の元に生まれ出でたのです」
「……美しい翼ですね」喘ぐように静かに溢れた声に、跪いている男は頭を下げたまま反応を示した。風切り羽が絨毯をくすぐってやまない。
さしもの龍下も言葉を失った。我々は―――
「我々は神が愛した獣との"合いの子"。翼を、爪を、鱗を、耳を持ち、混ぜ合わせ生まれる。その証は生まれたまま、成長することはない。理力も増えず、種族的特徴も決して成長することはない」




