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186 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(7)

「カタリナ教会司祭 ハウエル 付添人 ペトリ」


最後の謁見者の名を告げる侍従の声に合わせて、真新しい白布を頭から被り、ゆっくりと前進してくる者がいた。赤い海を割って歩く姿は花嫁のごとく、垂れた裾はさざ波のように絨毯を撫でていく。着飾っている訳でもなく、布きれは荘厳には遠い。歩みの度に微かに覗く短靴が人であることを告げているが、見えるものが見えないというだけで招待客は圧倒され、中毒症状を起こしたように黙り込んだ。万一結んだ口元から雑言が飛び出さぬように手で押さえる女の姿もある。白布から漂う畏怖が揮発し続け、司祭が中央で膝をつくまで誰も声を発しなかった。


「龍下にご挨拶申し上げます…………ヴァンダール旧市街区・カタリナ教会司祭 ハウエル……本大会が開催され、御身が遠路を越えて無事御参集を得たこと……心よりお慶び申し上げます。御前にこのような見苦しい姿をさらし……いかようにも罰してください」


白布の下から響いたのは、外形に釣り合わぬ罪過に満ちた懺悔だった。声は震え、今ここで裁定を下されることを切に望む。

招待客の半数以上がカタリナ教会の司祭を想像できていなかったが、ディオスの前に座っている大主教が椅子の陰から出た。横顔に憩う三日月の口元からは、龍下の前で自分の運命を決しようとしている男を自分のものとして正確に掴んでいることが察せられた。

草花を愛でるだけでは生きられないのは自分だけではないのだと、ディオスは直感的に気づいた。身の上について何一つ知らぬ白布の男を見て、ディオスは微かに笑っていた。男と自分の間を行き交う憐憫が切れ目のない頭痛をもたらしていた。いつの間にか振り返っていた大主教が、頬に流れる汗か涙かもわからぬものを拭った。


「……ここで見届けていてくれ」


何をと訊ねる暇も与えず、大主教はディオスの鼻面にかかる髪を避けた。それ以上の会話は拒み、本来の主らしく肘掛けに手を置き、深く腰掛ける。

胸を掻きむしるような仕草をして、啓示を得る為に頭を下げた白布はひとりでに絶望に沈んでいく。祝宴の場に相応しくない願いを男は望んでやまない。畏怖とは異なる空気が端から漂い始めた。すると龍下は、わずかな侮蔑も含まない笑顔を湛えて、深い皺のある手を掲げた。


「ハウエル司祭、よく来てくれました。貴方がカタリナに入ったばかりの頃、手紙のやりとりをしましたね。貴方が一日でも早く痛みを知覚できなくなるように毎日祈っていたのを覚えています。その後の経過はいかがですか」


白布が聳え立ち、男が頭を振った。縦に、横に。気持ちが渦巻いて、口に達するために口腔で押しあっているのが見て取れる。


「お見舞いの手紙をくださり、とても嬉しく……私のような者に……私のような………滅相もない事でございます」

「……龍下は君の体調を心配していらっしゃる、司祭」


ヴァンダール大主教の呼びかけに司祭は雷に打たれたように戦慄いた。白布が盛り上がり、後ろに落ちる。司祭服と歪む口元が覗いた。


「大主教閣下!……あぁ……あ、きょ、教会の外へ歩くことは控えていますが、運動はしなければならないと従者からいわれておりますので中庭を散歩しております。い、痛みを抑制するためには長い時が、………長い時が必要でした。私の体はもう既に二度目の生を充分すぎる程過ごしておりますので、……万全なときはもう訪れないものと思います。私は……覚醒していますが、世の事は認識できていないのです」


肘掛けの上の手に血管が浮いた。ディオスは冷酷な気配を感じ取った。膨れあがった意識の贅肉をそぎ落とそうと、言葉の拷問をしかけた大主教を龍下が片手で押し留める。天蓋の薄布越しに、白髭が左右に揺れる。やめよ、とじっとこちらを凝視する静かな目はディオスをおそろしいような、不安な気持ちにさせた。白布は二人の間で交わされるものに目敏く気づき、釣り上げられた魚のように跳ねあがった。


「ハウエル司祭、司祭、貴方の教会の中庭にはどんな植物があるのですか?」


おっとりした物言いに、白布は言葉に詰まる。


「常緑のロゼットが床一面に植えてあります。枝分かれした先に多くの赤や白の花を咲かせるのですが、今年は咲きませんでした。私自身注意して見守っていたのですが、あの花が咲かなかったのは初めての事です」


答えたのは後ろに控える従者だった。彼は招待客の訝しがる顔や、見物客のような好奇の目を寄せ付けない石塀のようだった。龍下や大主教を前にしても心を巻き込まれずに、照明の下で頭を下げ続けている。白髪で覆われた頭は上下に揺れることはなく、まるで最後の誓いをたてるように泰然としている。

動転する白布より、佇まいは司祭然としていた。白い眉毛の下にある熱く滾るような強い眼は己の役目を正確に認識している。


「そうですか。ですが今年のヴァンダールは雪が多かったと聞いています。ロゼットは遅く咲くということはありませんか」

「そうかも知れません。気候について注目してきたわけではありませんので、非家の観察では難しいものだと思います」

「花が咲くのは直前の気候に影響されるといいますね」

「はい。はい、龍下がおっしゃるなら」白布が言葉を継ぐ。


意識があるのに夢を見ているような言葉は誰の心にもかからずに終わった。






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