185 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(6)
「よく来てくださいました。先程はありがとう」
塊になった集団が割れて、中央で囲まれていた壮年の男―――ディアリス・ヴァンダールが片手を差し出した。ディオスはいわば二言三言台詞を言うだけの端役劇団員だが、舞台に出ずっぱりの名優は気安い笑みを浮かべ、言葉につまるディオスに歩み寄り、肩を抱いた。
案内されたのはヴァンダール大主教の座席の斜め後ろに置かれた椅子だった。大主教席の前では謁見が続き、薄い天蓋の向こうから言葉をかける龍下の御身足が見えている。対面のシュナフ、ホルミス大主教の表情、床に垂れる祭服の裾の皺さえ見て取れる。
(……まさかここに座れと?)
戸惑いと抵抗が足を止める。大人しく行くべきか、思考は曲線を描いて急反転した。今日はどうしてこんな事ばかり続くのだろう。肩を掴む大主教は笑顔でいるが、次の役を貰えば顔色を変えて手を振りほどくのだろう。それが利害というものだ。しかしこちらは、"大主教の隣に座った分を弁えない男"という看板を長く背負うことになる。それは少しも嬉しくないし、興味もない。用意された朱塗りの椅子は、特権が形になったものだ。
(座らない訳にはいかない……そもそも従者に声を掛けられた時点で断れば…………いや全部無理だ……)
そばを囲む従者たちは主の行動に異を唱える気配はなかった。意味もなく、ここまで連れてきた従者の姿を一瞬探すと、「何か」と大主教が低い声で問いかける。ディオスは数度短く首を振って時間を稼いだが、結局収まるべきところに腰を下ろした。
小島の上に建つ大聖堂や司祭館は周囲を海に囲まれているが、岩肌を舐める潮騒は聴こえなかった。饗応の間は昼間のように明るく、星を集めたように煌びやかだった。それぞれ礼儀を弁え、腕を絡めて囁き合うような男女はいない。
しかし街角の隅に散乱する暗い情緒と同じものが天井に掛かっているように思えた。広間の方々で互いの欲を組み合わせ、利己的行動を押し付け合う男たちは、自分たちを小難しく見せることに躍起になっている。路地裏に座り込み、肌着を押しひらき一晩の番をさがす女の方が不自由しているという男もいるだろうが、ディオスの目には逆しまに映っていた。
ヴァンダール滞在中、ディオスは路地に居座る女たちと知り合った。
土壌調査の帰りに適度に賑やかな通りに抜けるために細い道に入ったときのことだ。右に曲がり、左に曲がると、長めの髪を無造作に流した女が二人、扉によりかかって座っていた。前を通り過ぎると呼び止められ「お兄さん、それ」と後ろを指さされる。年季の入った手袋が落ちている。上着から滑り落ちたらしい。礼を言うとひらひらと手がふられ、彼女らはひそひそと顔を寄せ合い笑っていた。
翌日また同じ道を通ったので、夜食が入った包みを渡した。それからは何度か共に座って話しこんだ。声をあげて笑う日も増えた。さっぱりとした顔が妙に安らぎ、すぐに古くからの友人のような気安い関係になった。といっても二人とも妹のような年齢だ、二人はよく喋り、なんでも話してくれた。散髪代がないと言うので手持ちの鋏で整えてやると(鋏は採取の為に常備している)彼女らは髪を見せあい、嬉しそうに顔を綻ばせた。声を聴きつけ、扉から次々とさらに年若い……少女たちが顔を出した。扉の上には色褪せた看板がつりさがっていたが、今は何の店であるかは訊ねなかった。
今日も彼女らは扉の前に腰を落ち着け、斜面を流れる水路を眺めていたはずだ。ディオスは虚空を見つめながら、今日の服を売って、温かい外套を買い与えようかと考えた。けれど母の顔が浮かんだ。母はどこか自分の考えを受け入れてくれないような気がした。
「ディオスくん」
「……はい、大主教」
大主教に逢ったと言ったら、きっと彼女たちは互いに顔を見合わせて「誰?」と言うのだろう。扉の向こうに死体が転がっていると言われても驚かない、そんな煉瓦造りの家が並ぶ陰鬱な通りを大主教は歩いたことがあるだろうか。
金があればできることは増える。研究費だけでは足りず、多くは自費で賄っている。ディオスだけではなく、同じ部署に勤める者の多くがそうしている。ただ地面に這って、土を割って育つ美しい草花を見つめて生きていきたいだけなのに、それだけではどうすることもできない。
「誘いを断られてしまったが諦めてはいないよ。"君を"、ということではなく、類する志を持つ者を増やしたいと考えている。後進の為にも君の背中を見せることは重要だと思っている」
「……光栄なお話です。本当に私は理力もなく知識と奇怪な体質のしがない医生です。聖典やエゲリア写本に遵奉している多くの方々の方が、同じ場所またはさらに遠くへ到達できると思っています……これはとても個人的な話なのですが」
一旦口を閉じると、「構わないよ」と大主教が言った。緞帳の裏で囁き合うような、低い声だった。
「国内でも気候や地質が異なりますからヴァンダールを拠点とした研究も近いうちに叶えたいと思っています。この分野は研究する者がほとんど居ませんから、競い合う者がいないのです。いつか、そういった相手がたくさんできるようになれば、これからも研究を続けることが楽しみにもなりますので」
「そうか、そうだな……その通りだ。ありがとう」
余裕のある男が初めて柔和な顔を見せた。堅く冷たい陶器のごとく釉薬の繊細な曲線だけをまとい、その他すべてを弾き返すような鋭さの向こうに、かくも柔らかい情感が溢れている。ようやくもらえた拒絶以外の言葉を噛みしめている大主教をみていると、ディオスの心に罪悪が塗り込められる。こんなことを繰り返していればいつか心はぼろぼろに崩れていくのは明らかだった。やがてディオスは修理のきかぬ心を抱いて、話を打ち切るように椅子に背をつけた。




