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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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184 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(5)

「ヴァンダール大主教」


貴人が声をあげた。この場で発言できる唯一人。遊びと緊張の混じる空気の中でディオスは枝から枝を伝う鳥だった。見通しが立たない暗い森で、木々の合間から差す光をようやく見つけて安堵に包まれる。肩をわずかにおろして息を吐いた。翼で撫でるように手の甲で額の汗を拭っていると、不安が薄らいだ頭に吐息が降ってきた。大主教が喉の奥で笑ったのだ。ディオスは瞬きし、男を見上げた。龍下を笑うことができる男もまた唯一人なのかも知れない。


「龍下、お許しください。御気を悪くされたのであれば、お詫び致します」


ヴァンダールは笑っていた。謝罪が形だけであるとわかりきっている相手に向けて。医生にした勧誘はこの時点で水泡に帰しているが、どちらにせよ滑稽劇だ。意味はない。


対する老翁もまた笑んでいたが、ヴァンダールの目には今にもよろよろと立ち上がり、一挙手一投足を押さえつけたくてたまらないという情感を押し殺しているように見えた。

彼は国民の情感の写し鏡として生き、常に喜びや悲しみの表情を浮かべ、同調し共感を表していた。誰も彼の名を呼ばないように、彼に個という概念は適用されない。けれど今、こちらを制止する声色に内心の動きが表れていた。龍下という肩書の向こうから年老いた男が飛び降りたのだ、そう思うと充実感とともに笑みが深まる。


濃艶と優雅がつくりあげた途方で座すしかない老人を見つめる。壮麗な絨毯は刑場のように赤く染まっている。今しがた、人知れず息を吐いて安堵をした医生は盲した仔牛であり、龍下という巨木に寄りかかりながら、吹きすさぶ強風から必死に身を守っている。その身には部位を表す赤い線が引かれ、蓄積された知識を隅々まで啜られて生涯を閉じることも、線を引いた相手が龍下であることを知らずにいる。

ディアリス・ヴァンダールは整った世界というものが嫌いだった。調和している程に亀裂を残したくてたまらなくなる。そうした性分は他の大主教も、龍下もよく理解している事だった。


「ヴァンダール大主教……ディオスさんの研究が花開いたことは非常に嬉しく思っています。彼のような若手が活気づき、未踏の理術分野において、貴方も善戦したいという気持ちは、丁度むかしの私を見ているようです。彼の一族とは旧知の仲でしたが、聖典を元にさらに詳細に植物の調査や分類をしたのが彼の祖父でした。彼をはじめとしたその時代の学者たちの地道で忍耐強い研究があい重なり、捨て石となる覚悟で臨んだおかげで、豊かな土壌ができあがったのだと思います。研究というものは途方もなく根気が必要で、時間がかかるものです。だからヴァンダール大主教。私達は彼だけを高めるのではなく、彼のいる場所すべて、同僚、施設、なにもかもを高めていくことが必要な援助だとは思いませんか。我々もまた彼の祖父のように、次代の為に土を耕そうではありませんか」


拍手が起こる。大主教は豪雨のような音の雨の中で、滑稽な善性で武装した男に向けて最上の式礼を返した。


「御心のままに」



ディオスは謁見を終えると、うつらうつらとする感覚にしばし茫然と身を任せていた。大きな目標を越えると眠気を抑えられぬ悪癖は、饗宴の場では特に発揮したくない。

会釈をしながら人の間を通り、広間の片隅で一度呼吸を整える。肺に緊張を溜めたままでは気楽な言葉一つ吐けない。そのまま気を抜くと美麗な衣裳で隠した下の古色が顔を出しそうで、わざと気難しそうな表情を整える。いくつか食卓を見たが、銀皿の上に美しく並ぶ料理にはそそられず結局思いとどまった。ここ数日旧市街の年季の入った小料理屋に入り浸っていたので、頑固親父の作る名もない料理が恋しい。


中央を見まわすと、怖ろしい形相で睨んでくる者はいない代わりに、浮ついた視線がまとわりついた。嫌悪ではなさそうだが、親愛の類いであるとしても盗み見されては気持ちが落ち着かない。

誰も寄ってくるなと顔に看板を貼りつけられたらどれ程いいだろう。龍下から感謝状を賜った身では、取るべき態度というものがある。壁に向いている時以外愛想笑いを浮かべながら、覚悟して人波にもう一度入り込む。できることなら宿舎に戻りたいが、知り合いと同道してきたため先に帰るには具合が悪い。他にも数名見知った顔もあり、挨拶をしたかった。


(ポーレ長司祭に挨拶して……あとは……)


ずっと彼女の姿を探していた。給仕する者の中にも大主教らの背後の従者の中にも彼女はいない。


(ハリエット……)


結局別れてから一度も姿を見ていない。今日逢えればと、胸元に彼女の理力石を忍ばせてある。彼女を連れ去った――とは語弊があるかも知れないが、同行していた執行部の男は広間にいるだろうか。ディオスは壇上にいる龍下と、そのそばに侍る白服の男たちの顔をひとつひとつ眺めた。謁見はまだ続いている。龍下の耳元で何か喋る執行官の男の顔が、不意にこちらを見たので慌てて顔を逸らした。


「おたずねいたしますが」

「!」


声を出さなかったことは褒めたい。――――偉いぞ。

ゆっくりと声の方を向いた。充分に意識して丁寧な式礼をする。ディオスは首を縮めて、知らぬ男の背中に張りついて執行官の視線から逃れていた。そのありのままを見られていた。






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