182 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(3)
謁見の列はまだ長く尾を引いている。一方で、引き止めたのがヴァンダール大主教であれば、ディオスは座の前を辞するわけにはいかなかった。
首都アクエレイルに住む者にとって龍下が生命力に根を下ろす唯一無二の存在であるように、ヴァンダールを保護し恩顧によって市民を守り育むヴァンダール大主教もまた市民にとっては血族であり、始祖同等の尊敬と友愛を注ぐ相手だ。
謁見は慣習として龍下と謁見者の間で言葉が交わされるだけの場であったが、大主教という地位や開催地であるという位置的優越が、龍下を背景にして前に出てきた男を不敬とは見做さなかった。それどころか彼の頭角を待ち望んでいたかのように広間に緊張と興奮のどよめきが広がった。
大主教は龍下の前で腰を折り、まず儀礼として恭順の姿勢を見せた。優雅な所作は衆目にさらされてもなお堂々としている。指輪を嵌めた手を軽くあげて、龍下は彼に発言を許した。双方の一致和合が目に見えて交わされると、慣例違反の問題はなくなり、絨毯の上で獲物となったディオスだけが取り残される。
面識はないが、この大主教の誕生がヴァンダールという都市をどれだけ喜ばせたことか、ディオスでさえ知っている。
彼は段を降りて、ディオスの真正面に立った。龍下の姿は隠れ、見えなくなっているだろう。ディオスの背中では崇拝者たちが集まる気配があった。
何を言われるか読めない。健勝を祈るか、お逢いできて光栄だと言うか躊躇い、いずれも肉声で伝えることは叶わなかった。式礼をしたまま絨毯を見ていたディオスが顔をあげると、大主教の笑顔の中に明確な意欲があることに気づいた。攻撃の意欲だ。他の大主教のように食指を動かさず沈黙を選ぶのではなく、口実を設けて何かを訴えようとする強い欲求が眼光からほとばしっていた。
傍から見ればヴァンダール大主教の笑みは、婚姻式の祝辞を述べるような明るい清潔さがある。しかしディオスは、婚姻式に乗りこんできて婚前の贈り物や前婚のことを蒸し返すような支配的な混沌を彼から読み取っていた。この「予測」が確かなものであるかは、彼が何を語るかによって変転する。
「たった今、龍下より特別な便宜を図っていただきました。ディオスさん、貴方の"特定の植物を摂取することによって体内の理力を微増させるという論文"は、私も驚きをもって拝見しました。折角の機会を逃したくはない。理解を深める為にもう少し時間をいただいても構いませんか」
礼と了承を告げようと下げた頭に、こちらの動きなど待たずに続きの言葉が投げられる。ディオスは大主教が批判の筆をいつでも振るえると言いたいのだと思っていたが、言葉を聞いているうちに彼の真意をはかろうとした鋭い警戒を意識の隅に追いやった。
「論文にはアクエレイルの植生について、設備を投資して研究をしているとありますが、私が知る限り医疾部では植物研究を指揮する部署はなかったように思います。また、都市周辺の植生調査は複数公表されていますが、そのどれもの局部的なものです。今回論文執筆のためにご自身で調査に出向かれたのですか?」
まるで同職者の追及のようだったが、だからこそディオスは感情を抑えたまま、いつものように冷静に思考する。目の前の男は大主教ではなく、同じ研究室の男だと変換していた。
「おっしゃる通りです。医疾部には専任の部署はございません。アクエレイル近辺の植生調査は私自身が行いました。調査には時間がかかり、生物の住処に足を踏み入れることから危険も伴います。狩人を雇って同行してもらい、数節森の中で過ごしました。しかし色々な事情で各地の経時調査は行われておらず、国内の生物群系の把握は出遅れています」
「今回の論文内で使用された樹種は20属68種という少ない対象でしたが、わが国に生育している樹木の階層分類は聖典にある通り、さらに多くあります。今回アクエレイル周辺の植物に対象を絞った理由も全体的な環境欠如によるものですか?」
「一因であることは確かです。けれど近因とはいえません。私が今回着目したのは、植物の内部構造である根、茎、葉の三種の器官が及ぼす、理力の伝導と変質についてです。そのため今回の調査である程度の有意値と検定量が算出できていると認識しています。私が主題としているのはあくまでも理力であることは論文内にある通りです。植物には種子を守り育てるという役割がありますが、理力を伝えることにより、役割に変化が生じます。受粉後に子房が膨らむように、理力を注いだあとに増加が確認できたことに、植物の新しい役割を見出すことになるのではないかと考えています」
最後の一音まで集中して聞いていなければ問われる主題を理解できないのが、医生同士の偏屈で綿密な会話そのままだった。喉が渇く。大主教は嬉しそうに手を胸の前で合わせた。指の先端を触れては離し、周期的に繰り返している。まるで、誘導されているような、奇妙な空気があった。




