181 肉料理:鴨胸肉の執着と欲望の蒸し焼き(2)
「アクエレイル大聖堂・医疾部所属 医生のディオスと申します。わたくしの様な者までお招きいただき、こうして挨拶の機会までいただけたこと光栄に存じます」
夜を告げる大聖堂の鐘が鳴る。
祖父から父へ、そして子へと学者家業を継いできたディオスは、龍下というこの世の威光の前に膝をついた。天蓋の座のそばには側近が目を伏せながら立ち、四地方の領主である大主教が左右に着座している。祭服に各家の色をまとう彼らの背後には、武装した執行官の姿もあった。眼前に広がっているのはマーニュ川に隔てられた国土の縮図だった。ヴァンダール、ロライン、ホルミス、シュナフ―――大主教四家は贅沢を戒め、堅実な家政を維持しているときく。近寄るだけで、その別格の人となりを見せつけられているようだった。顔をあげることができない。崇拝と畏怖のるつぼで罪人になった気分だ。
ディオスは他の多くの医生同様に身を飾りつけることは大層不得手であった。
今日身にまとっている式典服も母に強要されて準備したものである。母が家に貯めているであろう書簡には、「研究費が入りません」「いつも同じ芋を食べていますが特に嫌でもありません」といった貧乏暇なしを地で行く物悲しい報告ばかりが並ぶ。息子が式典に出ることを聞きつけた母が「大勢がお見えになる席にお前をそのまま出すなんて恥ずかしくてできない」と家まで訪ねて来て、(母から見れば)崩壊した暮らしぶりに悲鳴をあげたのも今や遠い昔の事のように感じる。
論文を発表して、理力に関するそれなりに大きな発見を公表したが、莫大な富が築かれたというわけではない。相変わらず浪費を控えて、芋を主食に、研究に没頭している。母は「貴方の手紙が唯一の慰めですから、また是非お便りをください」と別れ際にそう言っていた。相変わらず背中ばかり見せて、どんな顔で言ったのかわからない。きっと今日の事を書いて欲しいのだろう。事前の備えが功を奏して、豪勢な宴に相応しくない服を着て顰蹙を買うことは避けられました、と書かねばならない。
「ディオスさん、共に来てくれて大変嬉しく思っています。ヴァンダールの印象はいかがですか」
穏やかな笑みを浮かべる龍下は、国という共同の家を取りまとめる救済者であり、統率者であり、神の代弁者ともいえる方だ。
信徒全体にとって彼は共有財産であり、心の奥深くに浸透する共通の刻印といえる。彼は愛し子を抱擁する父母のようにディオスと対面し、憂愁をたたえた唇を三日月に綻ばせている。その口から自分の名前が呼ばれたことが未だに信じられない。
「とても美しい街です。以前から良い所だと聞いて楽しみにしておりました」
受け答えは短く、簡潔に。高位の方と対面する時の暗黙の掟だ。間延びした言い方や、語尾の揺らぎ、見当違いの受け答えをすれば、龍下の耳を汚すだけではなく、以降の人格評価は急降下し、少なくとも出世は見込めなくなる。職位によっては退官もあり得る。平常心と念じながら、ディオスは龍下の胸辺りに視線をあわせ、笑顔でいるように努めた。
「アクエレイルで論文を発表してから、更に試行錯誤し、研究を続けていると聞いています。白鳥館では追加の症例について紹介してくれましたね」
「せっかくお時間を割いてくださったのに、あのような新規性のない断片をお見せしてしまったことは心苦しく思います」
「いいえ。貴方の同行を願ったのは私です。研究から離れれば文化の水脈が滞るとわかっていながら、貴方の論文や知識を広めたいという気持ちを優先しました。貴方の理術への理解は、最高の技術的到達点です。ここにいる大主教も私も格別の関心をもっています。これからも職務に熱心にしてくださることを願います」
過剰な賛美だ。龍下にとっては、この場で俺にそういう事で研究の足場を補強したいのだと思う。自身への言葉であると鵜呑みにはしないのが正しい。
龍下が視線を右方に投げると、従者が半ば開かれた巻物を右手に差し出した。紙上を見ながら、龍下は古い言葉を口にした。かつてにんげんという始まりの種族が使用していた言葉で「われを遣わせり」という意味があった。廃れて、常用される言語ではないが、今の言葉の源流でもあるため、響きや綴りはそこまで離れているわけではない。
詩を詠むような低い声が床を這い、膝をつくディオスの耳に触れた。緊張した面持ちで見上げる男に紅白の飾り紐が巻きつけられた巻物が差し出される。ディオスは前屈みになりながら、龍下の直筆の書状を拝して受け取った。母は喜んでくれるだろうか。浮かんだ痩せた背中に、あまりよくない記憶ばかりがある。結局のところ、権勢者の前にある今も、自分は土いじりをしていた頃のまま永遠に変わることがないのだ。母が未だに俺の事をだらしなく、躾が必要だと思っているように。
「私からも良いでしょうか」
退こうと膝を立てたディオスは声の方を向いた。




