18 逃げたい男と、
塩をつまみ、目を皿のようにしてかっぴろげて眼球のそばに近づける。なんで?
そのあいだ親指と人差し指は怖ろしいほど動き続け、片手で握った黒い何かを操っていた。奇行すぎて痙攣してるのかと思ったが、手だけ馬鹿みたいに速く動いている以外おかしなところがないから余計に長靴の男はうろたえた。
驚き、また新鮮に驚くことを繰り返した。この男の奇行を体が受け付けないといっている。逃げたい。
すると男が「見積もりこのようになりますがねェ!」 と、手に持っていた黒い物を目の前に押し付けてきた。その時初めてそれが手動式計算機だとわかった。
そりゃ商人会館のやつだもんな、と小指の先くらいは落ち着いた男だったが計算機に並んでいる文字を見てまた顔をひきつらせた。
「……桁を間違ってないか? そんな高いわけが」
「商人連盟の名に懸けて嘘は申しません。これは最低額ですよ」
男の胸元に連盟の印章がついている。これが複製不可と噂の理力印章かと思わず目がはり付く。
「ほんとか…」
「繰り返しますが嘘は申しません。遠路遥々長旅でお疲れかと思いますが、最後にひと仕上げさせていただきたく」
男はまたしても指を高速回転させ機械をいじり始める。金額が変わるのかと思いきや、そうではないらしい。こいつもしかしたら動いてないと死ぬのかも知れない。
長髪をなびかせた男の後ろから背筋をぴんと伸ばした少年がやってきた。顔より大きな角が頭頂部から生えていた。
「なんなりと」
「この荷車を仮置き場に運んで確りと護持するように。温度や湿度の変化に敏感ですからアルテ番人の保存庫に入れてください。その時に少量をアデレフ様のご試食用に取る事。あなたはこの方をアデレフ様の元にお連れなさい。先触れは私が飛ばしますので、迅速に」
少年が頷くと、真後ろから全く同じ顔をした少年が出てきて「では御同行ください」と見上げてくる。ぎょっとして固まってしまった。影のようにはり付いていたのか、元から一人だったのかわからない。角の生え方まで瓜二つだった。
もう一人の少年は片手を荷車の方に向けると、見えない紐がついているように簡単に荷車を引いてさっさと行ってしまった。
あれが理力だということはなんとなくわかる。男は元々理力が少ない体質で、住んでいた村も理力に馴染みのない生活をしている人ばかりだったので、理力を使う者をみる機会が極端に少なかった。
「これが都会ってやつか……違う! そうじゃなくて俺の塩をどこに持ってくんだ! 俺はただ金に換えてもらえればそれでいいんだ!」
胸倉を掴む。ギンケイの男が片眼鏡の向こうの眼を細め、笑った。
「そう熱くなさらず。会館の三階でご休憩中のさる商人の方が、質の良い商品をお求めなのです。日常に使用するが華美ではなく、金や銀を付けた奢侈なものでもないもの。今迄幾度となく品物を探し、献上してきた方ですがここ最近はどうにも目新しいものがなくって私共に相談にいらしてくださったのです。見たところ―――いえ、味わったところ、貴方の塩は私の舌が満足する商品でした。アデレフ様のお眼鏡にもきっと適うでしょう。なので貴方には直ぐにアデレフ様の元に向かって頂かなくてはなりません。ご心配なさらずとも話は通しておきますし、身なりも今のままで構いませんよ。アデレフ様は汗水たらして上げた成果を一層好まれる方ですから、その点でも気に入っていただけるでしょう」
「…………………俺は、そんな……」
「まだ何か?」
男の高速回転し続ける手首が不安を煽る。
男は首を傾げると、「あぁ!」と笑顔を見せた。
「アデレフ様はきっとこのような額で買い取っていただけるかと」
過剰に回転した計算機がぴたりと止まる。目の前に出された数字にまたしても―――今日何度目かもうわからない仰天を味わう。提示されていたのは先程の「八倍」の数字だった。
頭が追いつかない。これだけあれば数年は塩だけ作って暮らしていける、遠い場所にいる家族の顔が浮かんだ。
嬉しさがあった。嘘じゃない。でもそれを上回る恐怖が消えない。
「……献上って言ったか?」
「はい、言いましたよ。あ、この国の首長たる龍下さま、その人です。ご存知ありませんか?」
計算機を握る男の手が再び痙攣したように動き出す。顔は笑顔だが、強烈に胡散臭かった。やはり騙されているんじゃないか、長靴の男は今すぐに商人会館から逃げ出したかったが、丹精込めて作った塩は運ばれていってしまった。人質、塩質である。
ぴくりとも表情を変えない少年が先程からこちらを見上げながらじっと待っている。ギンケイの男が再び何かを言い出す前に、男は心を決めるほかなかった。
―――ご存知ないわけないだろバカが!
叫びだしたいのに口が渇いてどうしようもなかった。




