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179 魚料理:やや厚めに切った真鱈と他人の香草焼(7)

家族―――手を取り合って歩く男女、乳飲み子を抱いた女、働いた金を持ち帰る男。黙々と家財を蓄え、進んでいくそれらの人と人がつながって生まれる構成はシャルルと関係のないことだった。全く別の道を歩み、人の群れを遠目に見ている。帰る家もなく、理由もなく冷たくされては、小屋で、路上で、どろどろとした嫌悪や不快を飲み干しながら生きてきた。僻む気持ちもうらやむ気持ちもない。言ってしまえばそれしかなかった。それ"で"良かった。

立ち誇る花の美しさに足を止めて鼻を寄せる。何かを愛でる気持ち。清々しい朝の空気を目一杯吸いこんで、青空を瞳に映し取る。目に見えないものを有難がる衝動。そういった形の無い情緒と無縁であればあるほど安らいだ。自分は雨に打たれて頸を折り続ける青葉でなくてはならない。この世に生きるためにはバティストンだけがいれば良く、空しさも激しさも潤いもすべて彼によって注がれてさえいれば幸せだった。


(だから、もう……いらないのだと…………)


家族になろうという申し出に、シャルルは体を保っていられなかった。膝が崩れ落ちて、前のめりに傾く。ぼたぼたと流す涙の音がたえず自分の耳に聴こえていた。干上がった大地に水が染み込むとき、きっと同じような破滅的な音がするのだろう。

大木にぶつかるようにバティストンの腕に支えられる。雨のような涙が彼に見繕ってもらった服をしとどに濡らし、そのまま彼の布地が迫ってくる。迷惑をかけたくない。その気持ちが膨れ上がる。不安げに立ち話をする男に周囲の視線がつきまとっているのがわかる。頭一つ抜けた大男の顔は人波の上にある。これ以上醜態をさらせば、自分の存在が彼の足枷となってしまう。噂が流布する流れはとても速く、余計な尾ひれがついて変貌していくものだ。

バティストンの腕を押しのけて距離を取った。甘えてしまいたい気持ちが胸を締め付け、強く弾いてしまった。


「悪い……返事は今日じゃなくていい。よく考えてくれ……あー、仕事の名義とか小難しいことはお前の方が詳しいだろうが、そういう話もある。いや…こんな話はそれこそ後でいいな」


頬をかく居心地が悪そうな顔。そんな顔して欲しくない。心がめちゃくちゃになりそうだった。

気まずい沈黙が許せず、真っ白になった頭にありったけの平常心を流し込む。


「教会の、戸籍査察官に、あなたのと私の戸籍移動の理由を、詳しい文書にして、手渡す必要が……あります……」

「そ、そうか……結婚した時にも記録をとりにいった。どういうことなのか、少しはわかる」

「えぇ、そうでしょう……」

吐きそうだ。自分が嫌になる。

「よし」とバティストンが言った。「顔洗って来い、な」


胸の上に着座していた手巾をあっと言う間に押し付けられる。水滴に濡れた頬を指されて、シャルルは背筋をまっすぐ伸ばした。

これ以上居残ろうとすれば広間から追い出されてしまうだろう。ここにいたい。そばにいたい。だめだ。わかってる。

シャルルは息を深く吸いこんでから、バティストンを見上げた。


「すぐに手続きを進めます」


シャルルの顔にはもういつもの冷たさが浮かんでいた。バティストンはその顔から目を逸らすことなく、一言「いいのか」と聞いた。それがただの確認ではなく、出逢った瞬間から今日までのすべての痛みや理不尽に向けられていることに気づいていた。針を飲むような顔をしている。そんな顔で見てもらえることがどれ程嬉しいかシャルルは言葉にできなかった。


広間は晩餐会向けに豪奢な雰囲気を保つために、金銀の装飾品や等身大の彫像、赤や黄色の生花など派手な組み合わせで溢れている。生涯を通じて、これほどの色彩に囲まれることは最初で最後にちがいなかった。広間の前方では数名の高位の教職者たちが談笑し、支援者たちが名前を売り込もうと人から人へ移動していく。シャルルもまた古巣の歩みをなぞるように、さしたる感慨もなく同じように挨拶を交わし、従者のごとくバティストンに付き従った。喋りとおしで汗を掻いても、首元を寛げる事も出来ない。人はバティストンを自己の利益しか目にない男だというが、シャルルにはそうは思えない。シャルルにとってのバティストンは、


「………まだ、新しい邸もなかった頃…唄をうたったのを覚えていますか。大漁を祝う漁師の唄があるなら、商人の繁栄を祝う唄があっていいと、あなたは出鱈目な……」


バティストンの顔が歪んだ。開け放たれた口から覗く薄茶の歯がかちかちと合わさる。ほとんど覚えていないのだとシャルルは気づいた。不快感が募ると無意識にするその癖を何千回と見てきた。覚えていなくても残念ではなかった。当時彼は酒に飲まれ前後不覚だった。大声を出すだけでも楽しく、品のない俗語を片っ端から連ねたような唄をうたっていた。それを今、どうして思い出したのかわからなかった。でもそれが大事なものとしてふと浮かび上がってきたのだ。シャルルはふと遠くを見るような優しい笑みを浮かべた。白い歯の間から吐息が漏れ、二人の間で丸みを帯びた光となって弾けた。


「あなたが即興でつくった酒飲みの唄でした。貴方の生涯をうたう……泥臭くて生臭い歌詞の唄でした。途中で眠ってしまって……」

だから…、と言葉をつづけたシャルルにバティストンは暖かなものに包まれるのを感じた。


「また聴かせてください……最後まで」


それはきっと生涯を共にする誓約だった。バティストンはシャルルの瞳の中に煌めく光を、いつまでも見つめていた。






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