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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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178 魚料理:やや厚めに切った真鱈と他人の香草焼(6)

老女がバティストンらから離れたとき、何気ないふりを装っていた招待客たちが彼女を見た。中にはバティストンの知る顔もある。天敵でもあり仲間でもある彼らは感情の起伏を隠した顔で、老女との会話の機会を得ようと獲物を仕留めるように散開していく。

バティストンは血生臭い獣の群れから一歩引いて、大きく息を吐いた。心は静かに震えていたが、酒では味わえない陶酔感が体に広がっていた。大口の商談をまとめることができた充足感や危機を脱した興奮もあったが、もっと嬉しかったのはシャルルが交渉に立ってくれたことだった。


いくら食べさせても痩せ気味の色白の青年は、落ち着き、考え深く、ゆっくりと話をしていた。会話は短く、過剰な媚びもなかった。商会に対する無類の自信だけを着飾り、単純な問い方をする老女の好感触を引きだした。

夜遅くまで帳簿に向き合うことや、商会で取引される荷のすべて把握することなど、商会での仕事は単調で、派手なところなど一つもない。繰り返し打ち寄せる波頭の数を毎日数えるような途方もない営みを、決して投げ出さず、一日も欠かさずに完遂させる心掛けが、今日の結果を引き寄せたということは明らかだった。辛苦を辛苦で塗り重ねた日々にもかかわらず、シャルルは専念し続けてきた。それをバティストンは誰よりも知っていた。

出逢った頃の汗と糞尿にまみれた姿は既になく、シャルルは己の足で立派に立っていた。着飾った服も整った顔も、バティストンは華麗だと感じない。ただシャルルは自分の足で立ち、相手の望みを考え、心の模様を受け止める器となるように立ち回った。従属、隷属、服従、それらは対岸のごとく遠い。シャルルを包んでいるのはそういった仄暗い輝きではなく、誰の所有にもならない生命の力だった。それは同じ苦労を感じ、乗り越えてきたバティストンにだけわかる美しさだった。


「……よくやった」


それは当然の発露だった。周囲のことなど気にせず、棒立ちの体を抱きしめる。腕の中に閉じ込め、縛り上げるように抱いて、かたくなる肉の薄い体を堪能し、すぐに離した。一瞬でも満たされた。感情が体温をあげて、喜びが顔に出た。笑顔を制御できないことは久々だった。

シャルルに与えたものは、決してまともな教育ではなかった。間違っては殴り、評判が上がれば引き裂くように抱いた。ほとんど思い起こす価値もない。けれど忘れがたい日々だったのだ。

目の前の細身の体の中に自分好みの聡明で優美なものを作り上げようとして、握りしめた絵筆でぐちゃぐちゃに塗りたくった。そこに裏通りの小汚い家から始まった己の人生をうつしたかった訳ではない。殴られた実感を重く加えて、生きるということを教えたかったわけでもない。ただ、同じように生きて、同じように育てて、


「……俺にも生きる意味があったんだな……」


生きがいをもらっていたんだ、お前に――シャルルの肩を掴みながら、真上を見上げる。絡み合っていたものが解れてなくなっていく。渇いて、渇いて、渇いて仕方がなかった心のどこかが満たされていった。

そばで誰かが息を飲んだ。レーヴェが後ろにいる気がした。振り返らなくても心で直に感じていた。

シャルルは目に涙をたたえて、遠い夢のように静かに佇んでいた。いかにもはきはきと物を言う態度は掻き消えて、瞳を揺らしている。そこにある熱はなじみ深いものだった。似ている。似た者同士だ。


「………待て、俺はなんて言った?」


思いを吐き出して軽くなった頭の余白という余白に疑問を浮かべる。思い出してみると、好きなだけ暴れて散らかし終わったあとにすっぽりと気持ちが洗われているということはよくあった。相手構わずはけ口にしてきた。それが唯一自分を補修する術で、相手のことなど考えたこともない。

シャルルは固まり、蒼白な面差しをして口を歪めていた。瞳の潤みはなくなり、好みの輝きもなくなってしまった。


「レーヴェにいわれたからですか…?」


バティストンは答えに詰まった。女の警句のようなあやふやな言葉が飲み込めず、眉間に皺が寄る。しばらく誰も口をきかず、バティストンもまたレニエとのこれまでの経験から意味も解らずに肯定することを避けた。シャルルは俯いて、言葉を飲んだ。それからゆっくり顔をあげる。


「……私を兄にしたいと…、レーヴェにいわれて、だから……フロムダールの姓を与えたのですか。慰めに……? 馬鹿になさって…?」

「違う、…違う! 違う!」今度はバティストンの顔が青ざめる番だった。

「レーヴェが兄弟を欲しがっている事を言ってるんだな? あいつの口癖で……それで俺がいうことを聞いたと思ってるのか? 違う。いや、レーヴェがうるさかったのは確かだが、そんな事じゃない。そんなことで…………いや、俺が悪い。もっとちゃんとした場を設けて言うつもりだった……シャルル」


今しっかりと言葉にしなければならない気がした。


「お前を養子にする。とっくにしているような気がしてたが、気がしていただけじゃだめだと思った………確かに今じゃなかったかも知れない。ひどかったな……怒るな。まぁ、そのなんだ。嬉しくてな……咄嗟に………そういうことだ」


言葉にすることは壊滅的に下手だった。逃げ腰の語尾は、みみずのようにのたうちまわる。シャルルは口をぽかんと開けていたが、「とっくに」という言葉を音もなく繰り返していた。唇が上下したことがわかって、伝わってくれたことに安堵する。


「めずらしい顔だな……」


それはいままで見たどのシャルルよりも幼稚で無防備だった。心の深いところから湧き出た感情が、いま長い生涯を振り返らせ、シャルルと自分だけを覆っていた気持ちに答えが出た。


「なぁ、家族になってみねえか」






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