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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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177 魚料理:やや厚めに切った真鱈と他人の香草焼(5)

一時間経った。バティストンは一か所に留まらず、集団から集団の中に移り、交友を広げ続けていた。時折喉を潤すために杯をあおっては、懐中時計の進みを見て驚く。今日のように国中の有力な商人が集まることは早々なく、顎が疲れようと、笑い疲れようと羽を休めている暇などなかった。


「バティストン・フロムダールと申します。ヴァンダールで貿易商をしております」


正装に首回りをきつく締められて熱がこもる。手汗を拭ってまた別の支援者に声を掛けた。必要以上に力を込めて笑みを作る。舌先で歯を舐めながら、何百回目の台詞を言う。胸に手を宛てて頭を下げると、二人の従者を引き連れた老女は後ろにさっと顔を引くと、従者の耳元で何かを話しかけてからバティストンに穏やかな態度を示した。

丁度楽隊が音の旋律を変えた。こうした場でよく流れる定番の曲だ。彼女の正装は肌の露出をおさえた薄重ねで品があった。職位を明確に表す腰帯はないが、喉元に輝く深緑の宝玉は、意識して視線を引き剥がさなくてはならないほど美しい光沢を帯びていた。


「ヴァンダールへは久々に立ち寄ったのだけど、港の光景も随分様変わりしたのね。時の流れを感じてしまったわ」


料理の匂いと香水の匂いでバティストンの鼻はもう利かなくなっていたが、彼女の美貌は目を楽しませた。レニエの美しさは枠外にあるとしても、歳を重ねても美が翳らないということは讃嘆すべきことだ。

すぐに年齢の事を考える男の不躾な視線さえ理解し、制御することにも長けているのだろう。目尻や口元の皺さえ魅力と成して、にこやかに味わって微笑みかける。声色は落ち着いていて、語尾のゆるい話し方に引き込まれ、言葉を失いそうになってしまう。


「以前にも……ヴァンダールに訪れたことがおありなのですね」

「えぇ。この街がおぞましい不幸に見舞われるよりもずっと前のことよ。昔の事を懐かしんで、馴染みの店をまわっていたの。そうだ、フロムダールさん。貿易商とおっしゃったわね。人形を探しているのだけれど、扱っているお店をご存知かしら」

「人形ですか」


バティストンは体を少し引いて薄く息を吐いた。平然としながら頭の中では雑貨や玩具を取り扱っている同業者の顔を浮かべた。ヴァンダールで流通しているものの中で自分の手を通らぬものはないと言っていい。しかし傘が大きくなればなるほど足元の水たまりのことは気にしなくなってくるものだ。


期待に満ちた目が向けられていたが、老女は答えを得ることを主眼としているのではなく、バティストンがどう目処をつけるのか確かめるために手をわずらわせてきているに過ぎないのかも知れない。彼女の手にある蛇革の鞄はいかにも高価で、バティストンでさえ取り扱いがない。獣柄の装飾が流行っているのはシュナフだったとジョットが話していた事を片隅で思い出した。

確かな記憶はなかったが、商会で取り扱いがあると断定するか、確認をすると濁すか決断しなくてはならなかった。


「いくつか存じております。都合に合わせてご案内致しましょう」


シャルルの声だ。振り返るまでもなく恐れもなさない若者が並び立った。老女は我が家に無遠慮に訪れた青年を食卓へ招くように、寛いだ笑顔で出迎えた。

シャルルは決して新しい趣向を見せず、ただ従順にバティストンの立ち位置を踏襲しながら老女の視線を受け止める。


「とても嬉しいわ。大きな人形と小さな人形をたくさん探しているの。お声をかけたお店でいくつか出してもらったのだけど、欲張りで駄目ね、どうしても好きな見た目ではなくて」

「職人が丹精を込めて作った一点ものですから、それぞれ顔も違って性格も違うと聞いております。我が商会で取り扱っている商品はすべて目録にしておりますので、そちらをご覧いただければ都市全体をお手元で包括することができます」

「素敵ね。今度うちにいらして。もっとお願いしたいわ」

シャルルは低く笑った。「光栄です」


軽く頭を下げてバティストンの斜め後方のいつもの立ち位置に戻ろうとしたシャルルは、絹の手袋をした手が差し出されたことに気づいて、はっと息を飲んだ。

楕円の宝石のついた指輪が照明の一角の明かりをすべて集め、照り輝いている。彼女はその手に触れる事をシャルルに許している。胸に手をあててそれを見ていたシャルルは、少し遅れて敏捷な身ごなしで彼女の前に出た。手をとって額にすりつける。ほんの少し前髪が触れ、空気を味わうようにゆっくりと顔を見上げる。互いに年齢という鎖は解き放たれ、男と女の目と目が対峙した。

シャルルは今すぐ足を舐めろといわれたら、それをする自信があった。老女にはそういった力強さがあった。


「貴方のお名前を教えて下さる?」

「シャルルと申します」

「シャルル?」

「シャルル・フロムダールです」


フロムダール、――――答えたのはシャルルではなかった。

老女はシャルルの肩を撫でながら、首筋から顎へと指を添わせる。

シャルルは振り返れないまま、バティストンの言葉だけを聞いた。


「フロムダールさん、良いお子さんをお持ちね」

「ありがとうございます……自慢の息子です」






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