176 魚料理:やや厚めに切った真鱈と他人の香草焼(4)
大きな手に頬を挟み込まれ、頬の肉が盛り上がって目の下を覆う。無抵抗に開けた口に銀食器が飛び込んできたが、先端に何が乗っていたがほとんどわからなかった。香水の匂いに混じって香草の刺激的な匂いが鼻を抜ける。美味しい。口に含んだとみるとさっと手を引いたジョットさんはにこりと優雅な笑顔を見せるが、眉間に苦悩の皺が深く彫りこまれていると気づき、ぎょっとしてしまう。笑いながら怒っている…
「レーヴェくんも何か食べますか? 帆立貝と茸の窯焼きなんて、とても美味しかったですよ」
「申し訳ありません、黙ります」
レーヴェは怯えて、人の背中に隠れた。調子が良い男だ。
「どうぞ」水の入った杯を受け取ると、ジョットはまだこちらを見ていた。目が合うと二人で過ごした日々が遠い場景と一つとなって一瞬渦を巻いたが、広がることなく消えた。もう成人した男だ。彼の言うままに跪くことは無い。
「いらっしゃっていたんですね」
当たり前の事をいう自分に嫌気がさす。
ジョットを前にすると自分が子供でいるのか大人であるのか、いつも決めなくてはならなかった。
幼い日々に交わした情愛を語り合いたいわけではないし、そうしたいとも思わない。誰が誰に奉仕するかなんてものは、生きていく上で"よくあること"だ。あの日食べたものの味など覚えていないが、問題は自分が食される側だったとき、相手がもう一度と願えば料理を作らねばならないかということだ。果たしてその時どうするのか考えたくはなかった。
「シャルルくん、角が立たないようにお伝えしたいのですが、私もレーヴェくんと同じ意見ですよ」
聞き返すように顔を顰めると「笑顔が大事、という話です」と微笑まれる。レーヴェほど明け透けな顔ではなく、疲労の上にある大人の笑みだった。商会を取り仕切る忙しい身で、挨拶回りに苦労しているのだろうか。引く手は数多だろう。女でも、男でも。
「大抵の大人は、残念ながら若者に幼稚で無知で、自分より下でいて欲しいものなのです。だから程よく知識がなく、健全な笑顔を浮かべ、知的欲求への情熱だけがあるという風に見せておくことが、可愛がられる秘訣というわけなんです」
レーヴェくんのようにね、と視線で言う彼に、後ろから健全な笑顔しか取り柄の無い子供が顔を出した。
「その話を聞いた時に本当に感動したんですから。初めての式典なので講義してくれたんです」
「レーヴェくん、おくち」
唇の上で指を往復させるジョットに少しの緊迫感が生まれる。レーヴェは内側にまとまるように小さくなってまた後ろに引っ込んだ。
「レーヴェに講義なんていつ……いえ、貴方までそう思っているのでしたらやりきれません」
「私は君を見ていると思うのです。完璧を目指さずに、肩の力を抜いて欲しいとね」
「……友人を作りに来ている訳ではありませんので」
頭が痛かった。この世の一般的な友愛の形に当てはめようとする流れも、その形に押し留めようとされることも、何もかも。友人などいない――必要だと思ったこともない。恋人もいない。結婚もする気はない。
「ここへは保証をつくりに来ているんです」
ぽつりと、彼が言った。煌びやかな人の列を眺める。その横顔は頬に掛かる乱れ髪に隠れてほとんど窺い知れない。
「ここにいる人達とお近づきになっておけば、口伝てに知らない場所で名が広がります。一人から一人にうつるだけの短い距離でもいい。たった一人でも、私を頼ってくれる人が出て、その人に利益の出るように望みを叶えてあげたら、また次の口伝てにつながる。決して商談目的ではありません。広がった伝手はいつか自分に返ってくる。人助けのようなものです。だから今日はその始まりだと思ってみれば、やる気がでませんか」
背中に寄りかかって話を聞いていたレーヴェは「やっぱりジョットさんは憧れです」と穏やかに呟いた。お前が好きそうな話だと思いながら鼻で笑う。レーヴェのこうした純真な感性が、かつて自分にも備わっていたとは思えない。乳飲み子が母を探すようにレーヴェの手が伸びる。ジョットの大きな手が開かれるのを見て、気づけば手首を掴んでいた。
繰り返し打ち寄せる波を崩したくなる衝動が胸に湧いていた。レーヴェは何も言わず腕をおろして反応を探っている。
「本当に可愛らしいですね。二人とも私の息子になりませんか?」
「迷いますね」とレーヴェが笑って返した。
「即断してもらえるようもっと励むとしましょう」
背筋が凍る。震えが背骨から首に抜けて、骨伝いにきっとレーヴェも気づいたはずだ。穏やかなやりとりの間にいつの間にか掴み返された手が後ろに隠される。繋いだ手は震えている。私は何に怯えているのか、考える事ができなかった。




