表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

173/417

173 魚料理:やや厚めに切った真鱈と他人の香草焼(1)

「ひとまず顔合わせは終わった。少し自由にしていていい。適当に喋ってくるなり、飯を食うなり」


緊張した息を吐き出し、前屈みになった体をまた起こすとバティストンは会話が響きあっている集まりに目を走らせ、ホルミスの、と見当をつけて再び賑わいの方へ足を向けた。

レーヴェもまた父の視線を追って招待客の中に見覚えのある顔があるか確かめるが、馴染みのある顔はなく、また今日挨拶をした各地の商人の顔と名前はほとんど覚えていなかった。上着の乱れを整え、水をあおるバティストンをシャルルは黙然と見守っていたが、レーヴェは喉元に言葉を留めておくことはしなかった。


「父上どちらへ」


バティストンは息子の顔を覗き込んだ。昔なら嘆息するか、太い幹のような腕が横に払われていたとシャルルは床に倒れる自分を思い浮かべた。血が染み込んだ執務室の床板は張り替えてしまったので、まるでそういった行為自体も遠くの事のように思われた。思い出が霞んでいくほど、自分がつまらないものになっていく気がする。


「商会の顔馴染みに逢ってくる。あとで教会の方々との挨拶があるから体調を崩すなよ。飲み過ぎたり、食べ過ぎたりするな。走って転ぶな。疲れたら適度に休め、廊下を挟んで向かいの部屋は休憩室として利用できる。わからなかったらその辺りの給仕か、壁の側仕えに声をかけろ。全員目上の人だと思って粗相はするな。何か喋る時はシャルルを一番にして真似ろ。わかったな」


赤子を洗うようにバティストンの武骨で不器用な手がレーヴェの頭を撫でた。レーヴェは大きく目を見開いたが、顔を赤らめながら微笑む。愛息の頭を撫でる父親という穏やかな光景が彫刻のように出現したが、大きな背に隠され、それらを目におさめることができたのはシャルルだけだった。

手が離れてからレーヴェは舌をちろりと出して「私は子供じゃありませんよ」と頭を持ち上げながら言った。


「だったら言う事をよく聞け―――シャルル」


息子の分身を見るバティストンの目をシャルルは見つめ返して「お守りは任せてください」と鎧戸をおとすように慣れたしなやかさで返した。

低い声で頷いたバティストンは雑踏の中に消えた。レーヴェはお守りとあからさまに荷物扱いされていることに泡立つような短い息を頬を膨らませて響かせたが、シャルルにうんざりされる前に振舞いを正した。それにレーヴェにとっては、父とシャルルの間で交わされる言葉のいらないやりとりは胸が疼くほどに好きだった。


シャルルは近くの食卓に近づき、蓋のない銀の器に盛りつけられた料理を眺めたが、結局なにも手にすることなく食卓の前を他の客に譲って戻ってきた。

レーヴェが腹をさすっているのに気づいて「まだ緊張を?」というと、レーヴェはさっと手を後ろにやった。

円柱を飾っている彫像のそばには誰もおらず、顎をしゃくるとレーヴェが後ろをついてくる。明るい照明が少しおさえられ、壁には彫像の影がかすかにうつっている。

視線で促すとレーヴェは室内に背を向けて、秘密を共有するようにシャルルの前で表情を崩した。頭が上下に揺れ、うなった。レーヴェが自己を嫌悪している時によくする仕草で、港での荷卸しで手順を間違えて余計な仕事を増やした時や、ごく簡単な帳簿の計算を間違えた時にする顔だった。この若い男は明星のような輝かしさを持つ反面、自身を納得させるに足る実力がないという焦燥を抱き続けている。その証拠に口から出たのはやはり苦々しい嫌悪だった。


「緊張してます。ずっと今日のことばかり考えて……なんだか忘れているようですけど、こんなに大勢の人がいる式は初めてなんですからね? 今日だけで何人と顔を合わせたことか……全員の名前と顔で頭が……こうです」


顔の前で握った拳を開いて血が溢れ出るさまでも表そうとしているのか、滑稽なので手をおろさせるとレーヴェはまた低くうなった。子守りを承ったこともあり、やむなく慰めを口にする。


「その割に何ともない顔をしているように思えましたけどね。お前は誰とでも仲良くなれるという特技があるでしょう。厚かましさも。忘れてきたのなら家に取りに帰った方がいいのでは」

「私はシャルルさんのように"適当"という線引きが難しいんです。商会に勤めてくれる方だとかお得意様と心から仲良くなることは得意ですけど、今日は会話の最中でも別の相手を見かけたらさっとを表情を変えてそちらに行かれるでしょう? そもそも職をきかれて、商人だと答えると瞼が引き攣るじゃないですか。帯の色でわかるでしょうに。わざと…………いやです。差別を感じます。商いは生活にかかせないのに、どうして自分より劣っていると思うのでしょうか。商人は他の職業と同じく、とても立派な職業です。誇りに思ってます。だからそのような人たちの事を相手にするよりは荷卸しをしている方が楽しいって思ってしまうのです」


深く息を吐いてレーヴェはまた腹をさすった。


「貴方がそこまで仕事が好きとは思いませんでした…………顔に出さずによく努めているんじゃないですか」

「ありがとうございます。褒めてくれて嬉しいです。シャルルさんも本当に器用で尊敬します。私は人酔いしたのかも知れません」


欠片褒めただけで過剰な言葉が返ってくる。シャルルの中にあるレーヴェ用に携えた優しさなどは寥寥たるものだというのに。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ