172 汁物:根菜と教職者のとろみのある煮出し汁(4)
大主教が壇上からおりても、人々は何かに憑りつかれたかのように拍手に没頭していた。熱気が目に見えるように渦巻いている。広間に集う支援者たちはいずれも協力的で愛情深く、教会への帰依心が篤い。そして何より強欲だった。美しい広間や贅沢な調度品、色彩豊かな光景を自分たちに相応しいものだと考えていた。
開催地を変えて開かれる式典は所属団体の定例会合を欠席しても参加するほど意義があるものであり、すべての視線は壇上で憩う龍下にそそがれている。
壇上は二段に分かれ、龍下は天蓋に囲まれた最上段に座している。座具は簡素な木製のつくりで背板に葉飾りや鳥が彫られている。全体を金箔で装飾しようとした職人をとめて簡素なままの椅子を好まれたという逸話は浪費を止めようとする時に出される話題として有名だ。
次は大主教や式典の進行者にのみが登壇を許される舞台があり、そして最下段が他の教職者や支援者がいる床だ。それら三つの段差は人としての差を凝縮させた境界でもあった。
最下段の帰依者は語り合っている―――。
男はどちらも教職者で、袖がない脇の割れた服を着た式典用の衣裳と、金糸の刺繍の入った幅の広い袖のついた絹の衣裳を着ている。
「龍下は、いつも率先して希望を体現してくださいます。職務でお忙しいでしょうに常に毅然としていて敬服します」
「余暇には理術研究の本をひもといているそうですよ。勉強家であらせられる」
「そうなのですか? 私は大聖堂で一度だけお声をかけていただいたことがあって、その思い出を抱いて生きているようなものなのに……余暇のお話などどなたから伺うのでしょう」
「羨ましいと顔に出ていらっしゃいますよ。そうですね……龍下の大切なお時間についてみだりにお話してはいけないとは思いますが、貴方はどうこうなさる方ではありませんし。大聖堂近くの菓子店にお見かけすることも、あるのかも知れませんよ」
「…………店名をお聞かせ願えますか…?」
「この果実酒とても美味しいですね。飲み終えてしまいました」
「代わりを持ってまいりますとも!」
最下段の帰依者は語り合っている―――。
絹のような美しい髪を後ろに流し、宝石をつけた細い鎖を額につけた婦人が三人、長椅子に腰かけている。左右には式典服に身を包んだ痩身の男性(婦人らが目を掛けている若い男)が扇で風を送っている。
「ずるいわ」
「えぇ、まったく」
「私達いつまで魅了されるのかしら」
「いつまでもよ。あぁ、ご覧になって!」
なってるわ、もうなってるわ、と声が重なる。三人は招待客の切れ目の向こうで挨拶を交わし始めている目当ての美丈夫に熱い視線を送る。
美丈夫の後ろには多くの白服が立ち、対する恰幅の良い男(帯の色からして商人だろう)の後ろには大主教に挨拶をしたい者達が壁となっている。
「あの微笑みったらなんて…………知的で美しくって」
「まるで深い湖のよう」
「まぁ! なんて素敵な表現かしら。貴方達もっと扇いで。のぼせてしまうわ」
「あぁ、アーデルハイト様……噛みつかれたい……」
「この子ったら、よして頂戴。ここは貴方の寝室じゃないのよ。それに公の場ではホルミス大主教様とお呼びなさい。あの方のように節度をわきまえて、距離を保ち、健全な崇拝をおこなう。それが私達の公理でしょう」
「……こうりって?」
「論じるまでもない前提のことよ。ご存じなかったかしら」
「いやだわ。ご主人が学者さまだからって自分も賢いふりをしてはだめよ」
「ふり? 面白い転化ね。私が貴方より賢いだけなのよ」
「あら。認知されていない言葉を使わず、人に気を遣わせないことが一流の振舞いというもの。論じるまでもない前提というものよ」
「程度の低い方に合わせろということかしら? お願い聞いてさしあげてもいいわよ。一流ですもの」
「…………」
「…………」
「あぁ、アーデルハイト様…………」
最下段の帰依者は語り合っている―――。
丸い小さな縁なし帽を被った丸眼鏡の男と、薄い外套を着ている男。外套は重いひだを作りながら床におちている。シュナフからきた二人は商いで財を成し、初めて式典に参加していた。幼少期から一つ屋根の下で育ち、盗み、奪い、命までともにしてきた二人は、とうとうここまで来ることができたかと人生の頂を感じていた。そして間近で見る教会高位の者達の肉声にも思う所がある。
「龍下のお言葉はとても感動しましたが……やはり、さすがヴァンダール様ですね……次の龍下とも噂されているとか。異国との貿易も順調に成果を収めていますし、都市だけでなく彼自身を後押しする風が吹いているように思います」
人気といえばホルミス大主教もすごいですけど…、と人だかりになっている方を見て笑う。
「大主教という地位は教会の添え物ではないということだ。我々は、いまはまだ同じ道の上をのっとっている。ならば彼らが見せる一貫性が確保されるか見届ける義務はあるだろう」
「組合員にも今日の言葉は語らねばなりませんね。南部の支店を増やす予定ですが、ヴァンダールの支店の出資には色をつけても良さそうです」
「明日の一面は最も進歩的なヴァンダール大主教が労働者の貢献に言及……そんなところか」
「龍下の記事が載るのは当然として、大主教が同じ大きさで掲載されるか楽しみですね。上回ることがあれば」
「目に見える時流だ」
帰依者は語り合う―――、
その背後で人混みの輪から離れて壁際に向かう三人の男の姿があった。




