168 前菜:フロムダール家盛り合わせ(4)
しかし数多の声の中にある筈の声がなかった。驚いて振り返ると舵を握っているはずのレーヴェの姿がない。ずっとこうしたかったと楽しそうに舵を逆手で掴む姿があっと言う間に消えてしまった。
「うわッ!」
突然顔色を変えたバティストンがレーヴェの腕を掴んだ。閉会式が終わり、しばしの歓談のため人の波は移動を始めている。レーヴェもまた流れにそって前を歩く背に寄ろうとしているところだった。また気づかぬうちに粗相をしてしまったのかとレーヴェは気まずい顔で父親を見上げたが、そこにあったのは蒼白の顔とうつろに開いた口だった。
硬直する大男のそばを通る人々は何か囁き、笑い声や囃す声が混じっていた。潮の匂いが窓辺から風と共に入り込む。レーヴェは父の腕をやさしく叩いた。踊るように向かい合わせになる二人をシャルルが少し離れて見守る。
風は冷たく、バティストンは身震いをしてからレーヴェの腕を離した。「悪い」とだけ呟き、襟締を解こうとして指をかけたところまでいった。宴はまだこれからだ。息苦しいのだろうか――シャルルは止めるか否か判断がつかないまま一歩出たが、大きく見開いた目の動きで不要だと悟る。バティストンは目をきつく瞑ると唾をのみ込んだ。まるで悪夢を飲み下すような必死の形相だった。襟締はそのままに人の群がりの方へ歩いていってしまった。どう見ても平静ではなかったが足取りは確りとしている。
置いていかれたレーヴェがすがるように体を向けてくる。心配を浮かべる顔は無垢で繊細だった。
(家に連れ帰った方がいいと言いたいんだろう?――顔を見ていればわかる)
素早く首を振ると不承不承頷きが返った。無用な問答を始めないように背中を押して先を歩かせると、レーヴェは素直に父親の背を追いかける。何も語り掛けないところを見ると、彼なりに弁えているらしい。
一人になって、わざと距離を開けてあとを追う。
丁度人波が左右にひらき、親子の前に道が開く。それは意図したものではなく偶然だったが、シャルルがレーヴェに持つ哀れな嫉妬を煽るには充分だった。
(わかっている……家族でもないのにどうしてここにいるのか考えている……他の従僕と同様に控えの間にいるべきだ。たかが従業員なのだから……………どうしてこんな格好をして……ここにいる?)
何が無用な問答をしないようにだ―――譫妄に陥っているのはお前だ。
二人は何も言わないが、教会と支援者のみに門戸が開かれた特別な場に参加するには理由が必要だ。対外的な理由ではなく、シャルルの心に連れ帰る理由が必要だった。
もし訊ねたら彼は答えてくれるだろう。溝を跳び越すほどにあっけなく、決まり切っているだろうという顔で。それが怖ろしかった。聞いてしまえば自分の曖昧だった立ち位置が横取りされ、蝕まれた歯が抜けるように捨てられてしまうような気がした。
(誰に?―――誰が捨てるって? こんな良い服を仕立ててもらった癖して、同行を許されている癖して?)
物を買い、集荷し、箱につめて、船に積む。物事は何故同じように簡潔に終わらないのか。自分の足場を無に帰せしめる言葉が頭を巡る。
「レーヴェ」
呟きは闇の中に吸いこまれるように消えた。足元の赤絨毯が融けて、地面に投げ出された幼子の足が見えた。潮の香りではなく腐臭が鼻をつく。目は微動だにしない足に釘付けとなった。――――生白い足には垢も汚れもついていない。レーヴェ、これはお前であるべきだ。(違う、拾ってもらったのは私だ)お前が捨てられていれば良かったんだ。(私だって大事にされた)レーヴェ、理想が純粋化して人の形になった子供。物分かりがよく、向上心があって、無垢で、きれいで、星のようにはっきりと目に立ってしまう。なんて(憎たらしい)―――。
並んで歩く二人は血のつながりはないというのに、つながっている感じがした。
教会での契りひとつで親子になれるというなら、自分が彼の側で生きてきた日々だって同じ名で呼ばれるべきだ。そんな事ばかり巡る。
出逢ってからずっとレーヴェを憎み、あの人の隣に立つに相応しいのは自分であると思い込み、怒り、遠ざけて、冷遇し、辛辣にあたってきた。無能ぶりを見るだけで耐え難く、笑った顔が瞼をとじてもかかるように焼き付いて離れない。言うだけを言って離れ、仕事の合間だけ相手をした。少なくとも好かれることはしなかった。
鋭い眼で睨み、海に突き落としたらどうなるか考えた。一度や二度じゃない。水底に沈む姿を波止場の際でひっそりと立って眺める。大きな眼がぎょろりと見上げても、泡に阻まれて消えていく。
そのまま行方知れずとなってバティストンにこう言うのだ。
「帰るべきところに帰ったのではないですか」
自失していたバティストンの口元が何かを呟く。言葉の意味はわからないが、瞳が明滅して、かろうじて立っているというような彼を見たのは初めてだった。良かったと胸を撫で下ろす。悲しんでいるなら慰めることができる。欲しいなら、ここにも居る。だから見てほしい。
今度はちゃんと「息子」にしてほしい。
そう告白したい―――なのに、できない。どうして?
「レーヴェ…………」
足場を無に帰せしめる言葉がまた巡る。海景には夜が忍び寄っていた。
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