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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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167 前菜:フロムダール家盛り合わせ(3)

幸い、息子の裏表がなく騙されやすい笑顔が誠実さの証明になり得たようだった。何事もなく引き上げてくる息子の向こう、老人がちらとこちらを見た。視線を彷徨わせることほど危険な散歩はない。会釈をすると、知的な眼差しが外れる。何も知らぬ息子がかたわらに戻ると、シャルルが手首を掴んで自分の更に後ろに下がらせた。レーヴェは短い声をあげたが、シャルルの機嫌の悪さを感じ、巧みな間を置いて首をすぼめた。シャルルは息子と違って場慣れしている。レーヴェへの苛立ち半分引き止めなかった自分も嫌悪しているのだろう。


(……レーヴェは危なっかしいが、シャルルにも見習ってほしいところはある。良し悪し、どちらを秤にかけても視点が異なれば評価も違う…………)


レーヴェは融通のきかぬ男と奔放な女の元で育ったにしては驚くほど純真に育った。健康にも恵まれ、人をこき使うような傲慢さはなく、金遣いも荒くない。向学心はあるが、座学よりも荷役の男たちに混じって労働をしたがった。事務作業が得意なシャルルを見習ってもらいたかったが、邪魔だと退けても労働のさまをしみじみ眺め、叫び交わす符丁の意味や作業の工程を訊ねてくる。船荷の積み方や舵をまわす重みを知るために他の商会の船に乗って、そのまま出航してしまいそうになったこともあった。危ないからうちの船に近づかせなかったのが裏目に出てしまった。


家からしばらく出さず躾けたが、何より人を盲目に信じるところは直しようがなかった。他者に無条件に肯定を与え、善を前提として物事を見る。これほど笑えることはない。善や信頼などという弱弱しいものを他者に求める生き方は、痛みを知らない幼稚さからくるものだ。人は人を売り買いすることも平気でするのだと言ってきかせ、路上の隅で暮らす浮浪者の姿を見せた。それでも、空に必ず星がのぼるように、レーヴェの心に陰りが生まれることはなかった。


シャルルと出逢ったのは路地だった。

建物の影の中で肥えた体に油と垢をこびりつけた男が発狂している。仕事の帰り道、夜目のきくバティストンは男の顎にしたたる涎さえ見ることができたが、ひっきりなしに動く手が何を鷲掴みにしているかはわからなかった。酒瓶を持ち、慰みに一杯やっていたバティストンに、男はあたりかまわぬ大声で酒を寄越せといった。

日頃の鬱憤を晴らすものを神が遣わしてくれたのだと、神を信じぬのにそう思って笑う。男は訳のわからぬことをいって突進してくる。


「殺したんですか?」


シャルルが帳簿をつけながら顔を上げずにきいてくる。馴染みの執務室の天井を見つめ、酒を呷る。死んだかは定かではなかった。呻き声は聴こえていたが、酒瓶を男の頭に叩きつけてしまったことを後悔していて、男の体を飛び越える前に蹴りを入れて酒代を寄越せと吐き捨てた。そうだ、その時はまだ短い服からはみ出ていた膨れた腹が、荒い息遣いに上下していた。


「死んでない。残念か? 酒瓶の代わりに金になるものがないかと、やつが掴んでいるものを奪い取った。それがお前だった」


異常な話には異常な帰結が用意されているものだ。

シャルルは話を軽蔑している様子はない。覚えているか聞くと首を振った。その夜のことか、男のことかは知れなかった。


「拾ったものが優秀だったんじゃない。俺がお前を優秀にしたんだ」

「はい、その通りです」


シャルルの細い肩に手を押し付ける。まだ顔はあがらなかった。生意気だと感じ、乱暴に顎を掴んで指を口の中に突っ込んで掻きまわした。

大人びて見える男で、細く、後ろから見ると女のようだったから頭を机に擦りつけた。項に張りつく髪をよけると白い首が見えた。


「きれいだな」


静止していた首筋に震えが走る。

屠畜場のそばで拾った子供を育てたのは気まぐれとしか言いようがない。利益の出ない商売、物覚えの悪い従業員、取り立て屋の催促、増える利息。滝のように流れ落ちた負債が、またすぐ巡り返してきて、いっそ溺れるような日々だった。予定表には空白が目立ち、人生の方角が定まらない。人を傷つけたくて仕方がなかったから、シャルルはその内側の片付けに使っただけだった。


今日のシャルルは仕立てた上等な服を着て、いつも斜め掛けしている台帳の代わりに胸元に花を一輪挿していた。

自身は何も傷のないような顔で隣で膝をついているが、俺とこいつとを繋ぐものは汚く、怨みであるはずだ。


壇上では閉会式の終わりが告げられている。晩餐会では、とうとうヴァンダール大主教とともに龍下への目通りがある。そこで息子を手放し、代わりに財産と地位を得る。ゆくゆくはヴァンダールを統べる大主教の座を奪うのだと、あの頃は尊大な夢を思い描いていたものだ。


(……………夢)


人生は船だった。今日という日のために艤装をおえ、進水した船は荒波を越え、新天地を目前にしている。船を出迎える人が波止場のうえに集まっている。その中にレニエが赤子を抱いて立っていた。手ずから縫った服を着せて白布でくるんだ小さな子へ微笑みかける。夢のような景色だ。従業員が走り回る甲板をかき分け、シャルルが何かを俺に訊ねた。歓声にまぎれて聞き取れない。シャルルは冷えた目でもう一度訊ねた。


「これで良かったのですか」


従業員たちの動きがぴたりと止み、すべての口が同じ言葉を吐いた。


「これで良かったのですか」






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