162 白い狂気の価値と、
「じゃあまずは描こうか。あの美しさが消えてしまう前に……部屋から道具を持って来させよう。紙と筆と、画架も」
同意しようとして、はたと気づいた。
「……………お兄様? どうして私の素描道具のことをご存じなの」
隠していたのに。
光で手を隠しては片目を瞑っていた兄は、無言ののちに首を傾げた。
「部屋に出しっぱなしにしていただろう。扉から見える場所に素描があったから。丁度お前に話があって人探しのついでにぱらぱらと……といってもかなり前の話だよ」
「そんなところにいるわけないでしょ! 全部見たの? ううん、聞きたくない。見てないって言って」
「見てないよ。男性服の頁なんて特に詳しく見ていないよ」
「もう! 最後の方じゃない、全部見たのね!? もう!」
抱擁と殴打(触れあい)は、胸に詰まった幼さを流し去って代わりに愛おしさでいっぱいにした。空、湖、森、山、草木や砂まで、取り囲むすべてがありのままそこにある。戯れに目を閉じて、冷たい空気を吸って吐き出すと、もう弱音は消えていた。
「トリアスお兄様……ずっとおそばにいてね」
お兄様はきらきらとした水面をじっと見ていた。
風に長髪をもてあそばれ、結び紐がするりと解けた。銀糸を解いたように広がった髪をまとめようと差しのべた手は、首に回り、二人は互いの目をはっきりと合わせた。
お兄様は他のものを受け入れることを拒むように私を抱き寄せると、ただ背中を撫でていた。その目が今なにを見ているのだろう。不吉な思いが胸に渦巻いていた。
「私もそう願っているよ……」
―――
――
「スベルディアお兄様、トリアスお兄様…………」
胸に湧いた感情は顎を震わせ、涙となってこぼれ落ちた。
あれほど血を噴きだしていた胸元は、ほつれひとつないままに紺碧を取り戻している。ここにあるすべて、円座の男達も、修道女も、すべては残滓にすぎない。在りし日の姿を留めた邸には誰も居ない。父も兄も、愛する人のいない庭。代わりに、人の欲望だけが居座る歪な庭だった。すべてに実体がなく、意味の無い場所だった。
顔を覆って泣く間に、指の隙間から光が飛び込んでくる。周囲のすべてが光の粒に変わり、そしてまた人や植物、岩や石、風景の全てを演じるように形づくった。そのまますべて消えてしまえばいいのよ。舌がもつれて嗚咽だけがこぼれる。
(お兄様、―――、お兄様……)昂る瞳に青が滲む。
「泣く必要はない」
たぎり立つ愛憎の湖に男の声が響いた。
純白の衣裳をまとった男が宮殿に立っている。気品のある笑みを浮かべ、男の生き様がそこにあらわれているという笑みだった。男は錫杖で床をついた。音に運ばれた"死"が人の形をしたものを消し飛ばしていく。光は後方に流れ、天に昇る。円座の男達も、修道女も消滅して、世界がぼろぼろと崩れていく。
二人だけがいればいいと瞳で告げる男は、自らを一番素敵なものだというように右手を差し出した。空虚な男はその手が取られると信じているが、次に逢えた時にかける言葉は決めていた。
「いやな方」
老成した男はゆっくりと近寄ってくる。錫杖の音が一層強くなると、胸の中にはっきりと侮蔑が目覚める。
「逢って早々にそんな事を言われるとは思わなかった。君の言葉はいつも私を楽しませてくれる。私のまわりは従順な犬しかいないから、噛みつかれると嬉しい」
「貴方は心根の卑しい方になってしまった」
白髪髭をこする姿に手応えはない。哀れに憤慨を向けても、男はさらさら縁がないというように風に吹かれている。龍下―――その地位が男を傲慢にしてしまった。
肩から足元に掛けて垂れる深紅の帯が、血のように鮮やかに映った。
「すまないね。情けなんてもういらないと思って捨ててしまった。けれど私は君を驚かせて、喜ばせてあげようと思っているだけなんだ。君の境遇には責任を感じているし、互いの幸福を追求したいとも思っている」
「よして。その話はもうたくさん。壁にでも話していてくださった方がましだわ」
「邪険に扱うのかい。君はそうして生きがいを与え続けてくれるね。まるで別れ話をしているようで、首を振る姿さえ魅力的だ。優越感が補われる」
彼は目を瞑って顎をあげ、しばらく黙った。息をつめたような表情を見終え、上下した胸を見て、私の匂いを嗅いでいることに気づいた。矢も楯もたまらず、体をかき抱いて駆け出しそうになったが、息を止めて胸を張った。逃げ場はない。ここでは私以外すべて理力の残滓で、他者は永住することはできない。この男もまた、私を切り分けているあの尖塔の部屋に戻っていく。怖れる事など無い。
「………私の気力を削ぐために来たの? うっかり口を滑らせたふりをしてなんでも言葉にするのね」
「すべてを君に打ち明けないと気が済まないんだ。そうしなかったばかりに、私は一生を悔いる間違いを犯してしまった。もう二度とあんな目に逢いたくないんだ………君との愛、君との結婚、すべて私のものであらねばならない」
私の言葉を待って、黙っている。その目には私を濃厚に塗り込めようとする狂気がある。
「今私を罵る言葉を過らせただろう? でも君は躊躇うやさしさを持っている。私を傷つける言葉は決して口にしない。あたたかい愛情という以外にそれをなんと呼べばいい。君は私を愛している」




