160 白い日々と、
立像の影から出てきた腕に抱きすくめられ、視界が遮られる。噴水そばの園路には薄青の釣鐘水仙が咲いている。肩に頭を預けていると上向きに咲く花と目が合った。足が砂利を擦り、雨じみのついた石が鳴る。
次に視界があいた時には怒っているような険しい顔が間近にあった。取りすがるような勢いで腰を抱かれ、言葉を返す暇もないほど周囲を見渡している。「侍女はどうしていない」と強い意志の宿る目に、私は足をぶらつかせながら「お兄様を探していたの」と告げた。お兄様はその瞳に一閃の情感を過ぎらせ、細く息を吐いたあとに私をそっと下ろした。包まれている空気が少し和らぐ。
「どうして一人なのかは後で聞く。来客でもあったか? 予定はないと思ったが」
「お客様はいらしているわ。でもお父様が対応しているから……お兄様も行ってしまわれる?」
「いや、そうか客人か。父上に呼ばれない限りは行かないよ。これを着なさい」
お兄様は上着の留め金を外して、袖から腕を抜く。寛げられた首元に逞しい腱が浮き上がって、明晰さと不真面目さが混在しているような影があった。目を伏せて、私が袖を通すのを待っている。いつもの癖で身を委ねそうになって、急いで離れると、伴った憂鬱に眉が下がるのを見る。とらえられないうちに背中にまわった。
「そちらに座って、お願い」
体を引き寄せ、噴水の縁に腰かける。手巾を敷こうと腰を浮かせるので、少し寄りかかって止めると、企みがあることを察してくれた。「わかったよ」妹のためにふさわしい役どころを演じる気になってくれた兄は、廊下の飾り物よりも美しい姿で足を組む。深呼吸して、私は兄の前に立つと衣の裾を軽くつまみあげて、一回りして見せた。夢想していた瞬間は、甘い泥濘のように胸に広がった。
終わりには片足を半歩下げて、膝を軽く曲げる。講義で習った挨拶の姿勢は砂利の上では少し難しかった。ひらりと裾を離して顔を上げると、お兄様の顔にはもう笑顔が昇っていた。くしゃっとした目も口も可愛らしい。お兄様の笑顔には、心を安らげる力が込められていて、不安がすくい取られていくのを感じた。誰にも見られたくないと、怖れていた気持ちが少しずつ融けていく。
数節かけて作った衣裳をようやく見て頂けた。ここもあそこもといった感じに愛着があったけれど、いざ袖を通すと無性に照れてしまった。
「良い出来だね。ほらこれを着なさい。その格好ではいくらなんでも寒いだろう」
「走ったから熱いくらいなの。ありがと……ね、やっぱりみすぼらしいかしら」
もう少し見てもらいたくて上着の前を開いて、衣裳をのぞかせる。生成りの生地を四枚縫い合わせて作った簡素な貫頭衣は、晩餐用のような生地を重ねたものではないのでお父様には見せられない。ましてやお客様には猶更だ。胸の下で結んだ飾り紐と、袖と裾にふんだんに入れた刺繍以外は特徴はないけれど、快適な室内着だった。初めて作ったにしては形にはなっているのではないかと、そういった弁明のような説明を全部口にして、ちょっと顔を窺う。
言葉よりも分かりやすく浮かぶお兄様の表情に、喜びを感じていると知られたくなくて背中を向ける。波立つ心の揺れに鼓動がにぎやかだ。また前を向くと、憂いを帯びた吐息とともに両手が差し出される。もっと近づくように乞われ、お兄様の下衣に埋もれるほど膝を進める。
私を見上げるなり「みすぼらしい訳がない。個性的だ」と言ったので、私は少し可愛くないことを言った。
「男の人って褒めることがない時は個性的っておっしゃるって聞いたわ」
お兄様の目が鋭くなった。
「それは私以外の男だろう。誰にそんな冷淡なあしらいを吹きこまれたか知らないが、忘れなさい。お前には似合わないよ。細かな意匠も丁寧に縫えている。手縫いなんだろう? 手を見せて。怪我をしていない?」
「スベルディアお兄様が治してくださったわ。ねえ、お兄様、手縫いだってわかるほど拙いかしら。私の……」
手を繋いだまま腕だけをあげる。重くて大きい上着に健やかに動く様を封じられ、最後まで言いきれない。
「拙いものか。これまで手巾も外套留めもお前が縫ってくれたじゃないか。私がなんと言ったか忘れたなら、一字違わず繰り返すこともできるよ。けどそうではないのだろう? いつも自信たっぷりにどこが上手くできたとか教えてくれるのに今回はないのか?」
「あるわ。あるけど、こんなに大作を縫うの初めてなの。小物は慣れたけれど、大きなものは力量の乏しさが如実にあらわれてしまって。だから……」
「……だから?」
俯く視線にお兄様の顔が近づくと、私は頬を支えた。心の中がまとまらず、辻褄の合わないことを言ってしまいそうで、恥じらいが思考を遠ざけた。
「…………なんでもないの。ごめんなさい、着替えてくる」
「待ちなさい」
「いや」
「嫌? どうしてそんな事を考える必要がある。私は辱めたりしない。そうだろ。ほら、何を考えているか教えてくれないか。お願いだ」




