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16 二番目の人生と、

早朝、ルクレチアは牛の乳を搾ったあと朝食を済ませた。

搾った乳の半分を仔牛に飲ませ、残りは加工している隣家に売り払う。いつものように空の容器を受け取ると加工方法を教えようかと言われたが、そんなことをしている時間はなかったので直ぐに断り、銀貨を握りしめて帰った。体より大きな容器を抱え、首を捻って前を向く。手の中に握りしめた銀貨があればやっと新しい牛を買う分になる。すぐにお父さんとお母さんに渡さなきゃ、ルクレチアは転びながら家路を急いだ。


ルクレチアの家では四頭の牛を使って畑を耕していたが、牛に耕起を教え込むには長い節を要し、覚え込ませる事ができても季節の変わり目を乗り越えることができず衰弱してしまうことがよくあった。その度に新しい牛と入れ替えるので、家はいつまでも貧しかった。


畑仕事と牛の世話が一段落すると水汲みに村の井戸まで行く。行って戻ってくるだけに往復するのは勿体ないから、ついでに糸紡ぎの仕事をするために工房に寄っていた。いつものように玄関先に桶を置いて、空いている糸車を探す。最悪、いじわる姉妹の隣しか空いてない。


「あら、来たのね。今日はどんなホラ話を聞かせてくれるのルクレチア」


教会で青い花嫁を見て以来、ルクレチアの中には首都へ行く野望があった。

あの日の夜は、明日工房に行ったらみんな糸を紡ぐことも忘れてあの一団の話でもちきりになるだろうと、わくわくしながら眠ったのを覚えている。巡礼路の果てに消えたあの美しい人の話をしたくてたまらなかった。


翌日、水汲み桶すら忘れて工房に駆け込んだルクレチアが見たのは、いつも通りくだらない噂話に興じているみんなの姿だった。どこからも「教会」とか「花嫁」とか聴こえてこない。思わず近くにいたいじわる姉妹に声をかける。ほとんど怒声の「ねえ!」だったので、姉妹はのけぞった。


昨日の一団について聞くと、「み、見てないわ…」なんとしおらしい答えが返ってくる。(余りの剣幕でいつものいじわるさがどっかいってるのだ。こういうの滑稽っていうのよ)

それを聴いて、思わず顔を真っ赤にして絶叫してしまったのは悔しさゆえだった。


「気でも触れたの!?」


みんなが立ち上がり、後ずさったり、工房長を呼ぼうと走っていった者もいた。この絶叫のおかげで向かいの家で寝込んでいたロットンのおばあさまが飛び起きてぎっくり腰が治った、というのは次の日にロットンがしたバカ話である。気が触れてんのはあの子よ。


ルクレチアは拙いながらもありとあらゆる言葉で説明したが、言葉を盛りに盛ってしまったせいで、いつもの調子が復活したいじわる姉妹に「起きながら夢を見られるようになったの」と、小馬鹿にされた。

またしても大絶叫。「もーーー!!」今度はわざと、さっきより大声をあげた。だって余りに期待外れなことをいうんだもの。


耳を抑えて怒り出した姉妹が「牛と一緒に暮らしているから頭の中まで牛になったのかしらね!」と言うので、憤慨が拳となったのは仕方がないことだと思う。

が、糸車が邪魔で空振ってしまった。命拾いしたわね。

姉妹は「きゃー!」とわざとらしく悲鳴をあげて工房を右から左へ走り回った。いつか毛を全部むしり取ってやる。あんたたちが飼っている羊みたいに。


追いかけ回しているうちに工房長がやってきて農家と牧畜家の娘が互いに責任をなすりつけて指さしあう姿に、またかを肩を落とした。どうしてフェラーラがいないのかと嘆くので、どうしてそこであの女の名前が(しかも仲裁役として)出てくるのかと思ったが、あの日フェラーラも一団を見ていたことは確かなので、もしかしてあの感動を語れるのはあいつだけかも知れないと考え着く。ちょっと、いやだいぶマズイ。

苦い顔をしていると、工房長の背中に隠れていじわる姉妹が舌を出したり、目玉をぎょろぎょろ回しながら見てくる。はんっ、鼻で笑って返す。


この村は海港都市の領地内にあったが、海からもマーニュ川からも離れていたので農家と牧畜家と教会しかないような小さな集落で、どこを見ても茅葺の掘っ立て小屋しかない。


どこまでも変わらない風景に飽き飽きしたルクレチアはどうにかしてお金を貯めて村を出ていきたいと考えた。もっと稼げるようになりたかった。今紡いでいる濁った糸が、あの美しい青色に染まる夢を見る。あの服をいつか自分も着てみたい。


その「いつか」は必ずやってくるとルクレチアは信じていたが、世界は教会の向かいに織物商が越してきた時に変わった。




父が死んだ。ルクレチアを強姦しようとした男を止めに入って殺された。

私達の村には法律というものがあるらしく、遠い海港都市の領主様が発布したその規律がいうには、家主を失ったルクレチアの家は「死亡税」を払わねばならないらしい。


襲われたのは私で、失ったのは私なのに、その上どうして払わせられるのか全くもって意味がわからなかった。

けれど規律は規律だと村長が悲痛に――何故か自分も傷ついているような顔をして俯く。残された私達家族は、どうにかして税を納めなければならなかった。


村長が俯いたまま言う。金貨や銀貨などのお金ではなくても、農家は家畜を納める事でも構わない、と。

必要なのは一番良い家畜と、二番目に良い家畜。だから一番良い家畜として、雄牛が領主様の元に送られることになった。


そして二番目に良い家畜としてルクレチアが教会に送られることになった。


その節に流行病で雄牛がほとんど死んでしまっていたので、成牛は一頭しかいなかった。あとは生まれたばかりの仔牛、足の悪い母、立って歩き始めたばかりの弟。そして、それなりの体つきのわたし。だから、そういうことだ。


最後の夜、泣く力もない母はルクレチアの両手をずっと揉んでいた。

ルクレチアの手が冷たいといつも一本の藁を握らせてくれた。擦り合わせると温かくなって、ルクレチアはよく台所に立つ母の後ろでそうしていたことを思い出す。

冷えてもいない。手の中に藁もない。けれど母は黙ったまま手を揉み続ける。


あの頃は母は一人で立つことができていた。父と一緒に畑仕事に精を出し、水汲みの桶を持って何度も井戸まで往復していた。真正面から見る母の顔は皺だらけで、随分痩せてしまった。向こうの藁の上に眠っている弟も歳の割に小さく、満腹にさせてあげたことがない。

歩けない母と幼い弟と仔牛。自分がいなくなったあとこの家はどうなるのだろう。ルクレチアはどうすることもできず、何も言う事ができない。母は「だいじょうぶ」と何度も呟いていたが、それが自分に向けた言葉ではないとわかっている。



馬車に押し込まれ、生まれ育った村が丘の向こうに見えなくなる。

何度か馬車を乗り継ぎ、自分と同じように死亡税となったのかはわからないが、焦燥しきった顔をした女のひとたちでいつしか馬車は満員になった。みんな一様に口を噤んでいる。どこへ連れて行かれるかわからないのだから、挨拶をする気にもなれないのは当然だ。わかっているのはここにいる全員が、明日の命も知れないということだけだった。


何日揺られただろう、馬車から降りろと言われた時何人かは膝から崩れ落ちて床に座り込み、日差しを嫌って顔を覆うものも、お互いを慰め合いながら寄り添う者もいた。

ルクレチアは体力だけには自信があったので、ここにきても逃げ出す切欠を探していた。税として納められた女が辿る道などたかが知れている。だから逃げるなら今しかない。

というのに、石畳を見た瞬間、ルクレチアの胸は異様に高鳴り、今にも泣きだしそうになってしまった。下唇を噛んでおさえても、鼻の上が痙攣して、目元に涙がたまってしまう。畦道しか知らない足が恐る恐る石を踏み、不揃いな石が積み上げられた壁に近寄る。底の薄い短靴で小石を踏む、痛みが夢ではないことを教えてくれる。肌が知らない風に撫でられ、鼻が満ち足りた匂いに包まれていた。


長旅に同行していた無口な男が建物から出てきた男と話し始めた。ルクレチアは石壁に開けられた小さな隙間から外を眺めた。

大きな川が町に沿って曲がっていた。違う、町が川に沿って作られている。自分はとても高い場所にいる。眼下に広がる家屋の屋根はみな同じ色で、あのすべてに人が住んでいると思うと圧倒された。壁に囲まれた町だった。ルクレチアは震えていた。


「そこの女。中に入れ」


ルクレチアはよろよろと一歩、二歩と踏み出すと男に問いかける。


「ここはなんていう町ですか」


男は怪訝な顔をしたが、しばらくすると顎をしゃくった。ルクレチアはその方向を見上げた。

大鐘楼、そして龍の像が一番上に立っていた。


「アクエレイル……あ、……あぁ…」


男は放心した女の腕を掴むと、扉の方に押し出した。






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