158 白い庇護と、
玄関まであと十歩。生花の横から顔を出したところで、ようやく呼吸以外の音を拾った。執事の声だ。客人を伴って玄関から入ってくる。お客様は誰だろう。気になるけれど、今は誰にも姿を見られるわけにはいかない。踵を返すと、今度は応接間からお父様の声がした。
前後から話し声が近づいてくる。裏階段に行くために応接間の戸口を横切りたかったけれど、ひとまず柱の間で微笑んでいる"水瓶を持つ乙女の像"の裏に隠れた。台座にしがみつき、二人の挨拶が終わるまで息を潜めていると、お客様が装飾を凝らした玄関広間がとても素晴らしいと称賛してくださる声が聴こえた。すぐ近くで。足音が聴こえないから声が突然そばで響いて驚いてしまった。「特にこの像が一際美しい」鼓動が大きく鳴る。見つかりませんように。父が、書斎はもっと楽しませることができるでしょうとめずらしいことを言った。
(お父様うれしそう……学者の先生かしら…、そういえばお兄様の新しい先生は遠くからお招きした方だって)
声は遠ざかる。胸の内で三十数えてから柱の裏から裏へ移動した。体ごと寄りかかって重たい玄関扉を押し開ける。玄関前には馬車が寄せられていて荷物を受け取りにきた長身の使用人と御者がやりとりをしているところだった。
「なぁ、頼むよ。村に行くついでに手紙を出してきて欲しいんだ」
「お前……この宛名、まだ諦めてなかったのか」
「誰にも言わないでくれよ。酒はある、あとは……」
「あとは? 金ならいらない」
怖くはないけど怪しい雰囲気。中断させるのは気が引ける。どちらにせよ見つからないように、砂利から芝生にうつって、静かに角を曲がる。影に入って少し息を整える。目的地はまだ先だけど、それまでにたくさんの窓がある。しっかりと背をかがめて、緩急をつけて稲妻になった気分で走り抜けた。
人に見つからないように逃げるのは、実を言うととっても楽しい。
幼い頃は邸の外へは出てはいけなくて、屋根裏や地下など隅々まで冒険をして使用人たちを驚かせてばかりいた。彼ら彼女らはいつも優しいので、晴れの日も雨の日も雪の日も窓から眺める事しかできない私によく協力してくれた。
外の―――というと何やら大袈裟だけど、邸以外を知らない私に、村はどんなところか、人や物の話を聞かせてくれた。服を借りて台所仕事や靴磨きをしたこともある。そうした仕事があるとは教わっていたけれど、どれだけ手が荒れるか、美しさを保つためには多くの工程が必要だという事を知る切欠になった。
この迷惑極まりない我儘はお父様やお兄様、執事の目を盗んで数日続き、誰にも知られずに村に行って帰ってくるという大胆な計画も立てられた。食料品を届けに来てくれる馬車に隠れるとか、そういった後先を考えない無謀なものが。けれどそれらが実行に移される前に、誰からも尊敬される寡黙な執事に見つかり、そればかりか、侍女服を着た私を見て驚きの余り彼が卒倒してしまったので大騒ぎとなってお父様の耳に入った。冒険はそこで終わり。治癒術をめいいっぱい使って何度も謝った。あの時の事を思い出すと未だに鼓動が速くなる。自分のせいで誰かが倒れるなんて思ってもみなくて苦い気持ちもあるけれど、楽しい日々があったことも本当だ。
顛末をきいたお父様は長いこと額を押えたあと、絞り出すように一言「庭へは出ていい」とお声をくださった。娘の奔放さに嫌気がさしていないといいけれどと思いながら、半分では「ロライン家の領地は広いので、どこまでがお庭に含まれるかしら」なんてひどい事を考えていた。子供だったのだ。
後日さっそくお庭へ出かけようと支度をしていると、執事がお兄様が使っていらっしゃる講義用の黒板をお部屋まで持ってきて「少々お時間を頂戴致します。お嬢様はそちらにお掛けになったままお待ちください」と珍しく許諾を求めずに準備を始めた。彼が寝室までやってくるのはよっぽどの事なのだろう。準備を手伝ってくれた侍女も一瞬手が止まる。彼は黒板にロライン領の地図を描き、杖(指揮棒のようなもの)で叩いた。
「お庭へお出掛けになると聞きましたので、お嬢様へ敷地内の説明をさせて頂きます。まずこちらが旦那様が治めますロライン領です。邸はこちら、村とつながる道、こちらには湖と川。其々に名前があり―――」
何度も思い描いていた"外"の事を教えててくれる彼に、私は目を大きく開いて、口を押さえながら見つめていた。気を抜くと大きく口を開けてしまいそうだった。嬉しくてたまらなかった。後から思うと、興味が尽きない私の為に詳細に説明をしてくれたのだ。




