157 白い記憶と、
白と青の庭に立って湖を眺めていると、人はみな氷河から生まれ、最後にはすべて雪氷に覆われてしまうのではないかと思われた。氷河と対峙すると人が感じうる苦悶や幸福などという情感はそぎ落とされ、個人という感覚さえも剥奪されてしまう。氷河は人の営みなど何一つ知らず、群衆がいくら祈ろうと、守ろうとも思わず何もかもを砕いていくだろう。今は湖の端に触れている氷塊は、時をかけて少しずつ押し出され、いつかは湖を二分する。やがて氷河と一体になるロライン領は氷の墓標と呼ばれるのだろう。
庭に立つ像が、灰色の空に右手を差し出している。氷塊の到達を焦がれて仕方がないといいたげに微笑んでいた。
蔓植物の上に積もった雪をつまみ、薄片を指の腹でこすりあわせる。端からこぼれた水は親指から手首へとなだらかな曲線を描いて、最後には石段の上に落着した。雫が飛び散った先には苔と白いカビが這っている。石段の無口な同居人たちは、遅速を競いながら隅々に住み着き、互いの勢力圏を広げている。
苔とカビの間を縫って石段をおりる。湖へとつながる階段をあと一歩下りれば、簡単に標のない道へ進むことができる。けれど思いに沈んでいると、その一歩を踏み出す気にはなれなかった。視界を埋める広大な湖の向こう、大波のように聳え立つ山にはかつて神が住んでいたという。
ロラインの邸は人が住まうことのできる最奥の地であり、神の寝床を守る役目を負っている。湖のほとりに佇んでいる今、神と対峙する唯一のにんげんとして数多の視線を感じていた。そこにはたぎるような興奮も、一切の幻想もない。
襟ぐりにすべりこんだ冷気が肌から熱気を奪い取り、押し分けて背後にある物言わぬ邸へと去っていく。嘲笑されているような、得も言われぬ恐怖を感じた時、後ろから喝采が聴こえた。
振り返れば原野に円座している医師らが中央で立つ男に思い思いに声を掛けている。手を叩き、健闘をたたえているようだ。男は丸めた手で空気をさらい、仰々しく礼をして見せた。曲のひき終わりに広がる余韻を楽しむように、天に向けて捧げ持つ赤い塊を見せびらかしている。
それらすべてがあいまって彼らは贄の儀式をしている術者に見えた。
「見事な肺だ。これをさらに開き、詳細に分けようではないか。医療の更なる発展を祈って」
「更なる発展を祈って」
声をわきに置き、思考の波に潜る。もしも肺が弦楽器に変わり、舞曲が奏でられていたのであればどれほど良かっただろう。そうであればこの庭は礼拝にも、演舞場にも負けぬ美しい音色が響き、心が震えるような歓喜を味わえただろう。それが束の間の幻だとしても。それでも構わない…
「おしらさま」
もう一つの余韻に浸る声はすぐそばで響いた。ハリエットという名の修道女は、細い水たまりの間に膝をつき、衣服が汚れても構わずに祈りの姿勢でこちらを見上げている。先程まで共に在った魂は元の場所に戻り、今は抜け殻の情感が姿を成している。彼女は恍惚と眺めながら、もう一度"おしらさま"と言った。ろれつが回っていない甘い響きは耳に届き、そのまま地面に落ちた。彼女は音をすくいあげると、また口に含んで吐き出すことを繰り返している。
「……えぇ、聞いているわ」
「おしらさま」
「貴方は私をそう呼んでいたわね。お腹は空いてないかしら。喉は渇いた?」
「おしらさま」
「食べたいものはあるかしら」
何でも用意してあげられると言おうとしたが、空しくなってやめた。石段から細い小道を通って庭を横切ると、彼女は指を絡めたまま後ろをついてくる。苦しさが胸を渦巻き、走り出したくなった。
いずこか判別できぬ場所から融けた水が流れ落ちる。今まで意識していなかった水音はうるさいほどに響き始めた。彼女の声はすぐ後ろにある。抜け殻のようにがらんとした声だった。
水のない噴水に雪崩るように座り込む。
ちょうど同じ場所で兄と話したことが思い出された。慰めにしては小賢しいと叱責しても、記憶の扉は開かれてしまう。
(お兄様…………)
―――
――
表階段を駆け下りる。
最後の段は飛ばして着地。多少はしたない行為であっても絨毯は音を消してくれる。ゆったりと川面を撫でる水鳥も水面下では水かきのついた足をぱたぱたと振っているのだから、私が衣の下で必死に小走りすることは、はしたないことではない。(というのは道理にかなわない理屈、資質を損なうので人の目がなくとも行ってはならないのよ。またお父様に怒られちゃうわ)と、心の中で冷静な自分が悲憤しているが、どうしても誰にも見つかりたくないという気持ちが何よりも勝っていた。
これはある晴れた日の午後の記憶。私は噴水に腰かけて私を見ているわ。あぁ、駆けていく姿が見える。




