156 白い語りと、
講義も終盤にさしかかると青白い顔をしていたお兄様も、本来の彼らしく徐々に血色のいい明るい雰囲気を取り戻していた。机上にはたくさんの本が並び、互いの手札を見せるように思想に一致する、または拠り所となる実証を語り、不足を見つけ、補う方法が論じられている。時折、面識のある画家の名前や、交差廊に飾られている絵画が話題にのぼり、読書の手をとめて耳を傾ける。肘置きよろしくお兄様の腕に重ねていた手は、上からしっかり握り返されていた。
こうして私は兄の"お守り"として、講義にたびたび同席しながら歴史学の入門書を読んでいた。章の終わりにオレンの葉でつくったしおりを挟むと、戸口から足付きの台車を押して使用人が近寄ってきた。
お話を中断する気配の無い二人から離れ、使用人のそばに寄ると「氷菓がございますよ。お召し上がりになりますか?」と小声で告げられる。両手を合わせて頷くと、彼は宝物を見せるような嬉しそうな顔で銀蓋の下から乳白色の冷菓を取り出した。硝子の器に雪玉のような可愛い冷菓が乗っている。小粒のリリの実が添えられて見た目も鮮やかで、リリの実の酸味と氷菓の甘さを想像するだけで頬が緩んでしまう。通年雪が舞うロライン領を表現したような冷たい銘菓で、先生と私は我を忘れてしまうくらい、この冷菓に目がなかった。
そろそろ退室しなきゃと思っていた気持ちを捨てて「大好き」とうっとりしながら硝子皿を受け取ると、「何が大好きだって」と声がかかる。振り返ると困惑して前屈みになった兄の姿があった。伸ばされた手は私を探すように宙で動き、思わず手を取りに戻った。
「お菓子の事です。先生、お兄様も、机の上をほんの少し開けて下さいますか?」
「勿論だとも」
先生は冷菓を見るやいなや眉を大きくつりあげて、喜色を浮かべたまま本を数冊重ねては端に積み上げていった。とても素早い動きで。
「ねぇ、冷菓が好きということなんだね? 彼の事ではないね」
彼?――視線を追うと、笑っている使用人がいる。それは勿論大好きよ。もっといえば先生もお兄様も、お父様も、屋敷で働いてくれている方も、領地のみなさんも好きなの。なんて言葉が浮かんだけれど、言えたものではない。だって経験則。お兄様は青白いお顔で、きゅっと目を細めた。とにかくお兄様のお気持ちはささくれだってしまったようなので、皿を置いて手に憩っている指先に口づけた。
「まったく要らざる注意というものよ」
当惑顔はまだ目の前にある。ふるえる睫毛がほのかな影を頬に映した。せっかく赤みがかった素敵な顔色だったのに、今は私よりも色気のある憂い顔をしてらして、それはそれで矜持が傷つくというもの。ちょっと怒りたくなったけれど、やっぱり可哀想っておもう気持ちが勝るの。顔を覗き込みたくて体を傾けると、お兄様の胸元にこめかみの髪がひと房落ちた。兄の薄い瞳が辛酸に耐え切れないというように揺らいで、閉ざされてしまった。視界の端では先生が冷菓を味わっている。多分後ろでは使用人たちは笑っているにちがいない。
「スベルディアお兄様―――」
言いかけたところで、先生が匙を持った手を指揮者のように振った。
「ううん、なんて美味しいんだろうね。このリリの実は庭で採れたものかな」
「おっしゃる通りです」と使用人が答える。
「村の方ではベナの実を使う家庭が多い。馴染みのある庭木の実を添えるのがこの冷菓の良いところだね。寒冷地でも冷菓をこさえるところも愛おしい」
「外がどんなに寒くても、温かいお家の中で家族と一緒に冷菓を食べる風習なのです」
「うちにはリリもベナの樹もなくてね。植樹をしなければと思っているがいつも後回しに……庭木といえば、わが家での晩餐で教え子たちを紹介したが、そのなかに黒髪の腰の高さまで長い髪の……覚えているかね。彼はあの夜以来、お嬢様のことばかりなんだよ。歓談がとても楽しかったようなんだ」
「覚えています。嬉しいですわ。彼とは寒冷地でも育つお花の話をしました。挿し木のやり方についてもお詳しくて」
彼の姿を思い返していると、首筋にひやりとしたものを感じた。
「それは庭師にやらせばいいことだ」
「まぁ、お兄様?」
「先生、彼には思い出を大事に生きるよう言い聞かせておいてください」
「あぁ、君がそう願うならそうしよう」
「お兄様ってば、彼は」
「お前を男の目にさらすわけにはいかない。二度とね」
お兄様はこうなったら、お父様にも負けない鋭い目で私を見る。
でも先生も人が悪い。お兄様の胸板に頬をあずけながら先生を見ると、片目をぱちりと瞑って、悪戯な笑みが返される。またほのぼのと冷菓を楽しんでいらっしゃる。
確かに男性と花の育成について少しだけお話した。花冠をかぶった女神のようだと褒めてくれて、別れ際にはまた逢いたいと懇願された。
(先生も一部始終ご存知でいらっしゃるのに、わざと言ったのだわ)
見せ物として満足がいくものだったか先生に別れ際にたずねた。すると先生は兄の息抜きになったはずだというので、そう言われると何も言えなくなる。お礼を言って馬車を見送った。
さて、この後の予定は全部明日にまわして、兄のそばにいなくちゃならない。だから、素敵な話をしてくれた貴方と、もう二度と逢えないかも知れないから心の中でお別れを言うわね。庭仕事に詳しい5歳になったばかりの男の子。雪がとけたら逢いましょうね。
兄の呼び声に振り返る。庭に雪が降り始めた。山の谷間を埋める万年雪をしばらく眺めてから、使用人の止めおく扉をくぐった。




