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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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155 白い愛と、

本棚から重たい本を引き抜き、先生はそのまま反動で長椅子に弾むようにお戻りになった。兄はもう随分と書籍を読み散らかすのをやめていたから、本を追って暖炉の灰のように埃が舞った。先生は本を長椅子の背に隠すと、何度か叩いて埃を払う。銅を叩くような鈍い音が書斎を跳ねる。


丁度先生の後ろに使用人が立っていたのでちらと見ると、胸を張りながらも目だけは先生の動きを追っていて、口角がぎゅっと下がるのを見てしまった。私に見られているとわかって、わざと目を見開いて驚愕の顔をして遊ぶものだから、声をだして笑いそうになった。はしたないからやめなさいとお父様にまた怒られてしまう。先生は「埃がね」と言い置いて本を開く、片手では机上の紅茶を飲みほした。茶器を端に避けて、指で文字を追う。どの頁を開けば良いかは、ほとんどわかっているのだろう。


先生のお口からは「あー」だとか「うぅん……」というような独り言が思考の波ごとに生まれる。先生の扱い方、というと少なからず響きが悪いけれど、こういう時の先生は思考の深く淵源をさらっていらっしゃるので、黙って見守っているのが一番いい。


それよりも妹としては、隣からひしひしと感じる兄の苛立ちに寄り添わねばならない。膝の上に置かれた腕にそっと手を重ねる。兄は家長譲りの鋭い目で、自身と同じ水準の作法を一切おこなわない先生を逐一目で追って、不満を見つけては不機嫌な顔をしている。

私にとって先生は飽きのこない魅力的なお方であるけれど、兄は先生の良い所を知っていてもなお、自分の潔癖を優先するようだ。

兄はこのところ、そういった余裕のなさを嫌悪して塞ぎ込むことが多くなった。先生と同じくらい穏やかで真っ直ぐな笑みはなりを潜め、悲しいと顔で言いながら大丈夫と言うようになってしまった。飼葉を両手で抱き、愛を伝える目で、馬の背を撫ででいる姿は長い事みていない。厩舎に顔を出さず、書斎や自室で巻紙に囲まれている。お父様のお仕事を任され始めたのだというが、口数が減ってしまって、長時間起きて昼夜逆転なさる日もある。青白いお顔をして、お食事もほどほどに席を立つ姿はお父様とひどく似ている。


秩序の維持という名目で他者との一定の距離を保ち、平等に律しなければならない。父は郵便の封を切りながら、兄の顔も見ずにそう告げた。お父様の言葉には必ず意味がある。兄は何か平等に律しろといわれるようなことをなさったのだ。平等を許されぬ気持ちにぶつかって、難破船のように翻弄されて心細いのだ。


兄は部屋を出て行ってしまった。苦しみで顔を歪めながら、それでも礼節を守って父に挨拶をしていかれた。お父様は黙って手紙に目を通している。文章は頭に入っていらっしゃるのだろうか。本当はお兄様を追いかけて、抱きしめておやりになりたいのではないか。後ろに撫でつけた黒髪にはほつれ髪ひとつない。お美しいお顔。それがほころぶところはほとんど見たことがない。

けれど知っている。遅くまで書斎の灯りが消えず、領地の事を考えていらっしゃること。庭を照らす光は、きっとお兄様のお部屋からも見える。領地を持つ者の苦労は、決して推し測る事は出来ない。だから今は黙って寄り添っていたい。お父様のお心にも。お兄様のお心にも。

許される限りおそばにいて守ってあげたい。お兄様の取り繕った笑顔を見ていると、背に音もなく何かが忍び寄っているような恐怖がぬぐえなかった。


(お父様……本当はお兄様のことが大事で大事でたまらないから、こんな素敵な先生をお招き下さったのね)


いずれアクエレイルの大聖堂で学ぶことになる兄の為に、父が招いた講師であり司祭でもある先生は、普遍を包摂した飾らない方で、ロライン領に招かれてから教師の仕事も半分に、畑仕事や家畜の世話をしながら暮らしていた。こうして講義にいらっしゃる日は、土いじりのあとの草の匂いや、馬の体臭(とても甘い)をまとっていらっしゃることが多く、正面玄関から書斎まで案内する若い使用人も、先生を背中に誘導しながらも、目を見開いて何がしか訴えていることがよくある。前にいらっしゃった時は長靴に泥がついたままだったので、書斎に入る前にひと悶着あったという。お父様でも乗馬靴をはいたまま書斎には入られない。私はまだ馬に乗ったことはないので、――はしたないからと厳しく止められているので――靴を汚したときの作法は明るくない。お兄様は書斎での講義をとりやめ、庭の小さな宮殿で馬の話をしたのだという。仔馬の名づけ親になって欲しいといわれたとか。


歴史学者でもあらせられる先生は、本の上下を入れ替えると、一連の言葉を諳んじられながら兄をにこりと見上げた。ほのぼのとした優しい笑顔が小さな眼鏡ごしに浮かぶ。目尻の皺さえ愛おしい方。癖のある巻き毛は四方に跳ねて、けば立った上着をはたけば土が落ちそうだった。


先生とお兄様は信仰の最も古い伝統について紐解かれた。さすがに兄もお気持ちを切り替えて先生の指を追い、それから身に包んだ紺碧の衣裳のように強靭で整った言葉を返された。何かを口にする時、兄は時間をかけて黙り込む。そしてそのあと小揺るぎもしないで答える。その肩には広大な領地と、展望を見通すお父様の姿があり、畏怖や忠実さに支えられ、兄もまた揺るぎなく立っている。


国の歴史を始源から解きほぐし、二人はいかにもやすやすと言葉にして大局を立言していく。

対照的に対極をなす二人を見ながら、その無限に引き合い、反発する間に自身の居場所を当てはめるのが好きだった。二人は言葉にすることのできない感覚的なものまで、正確に定義し、本棚に押し込められた本のように決まった場所にするりと挿し入れてくれる。その甘い時間が、一種の快感を得るような素晴らしい時間だった。






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