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154/412

154 白と赤と、

白と青の清浄な空気のする庭から、ハリエットは引き戻された。高所から落下してそのまま地面に叩きつけられた気がした。目を大きく開いて覚醒した時には心臓の鼓動がひときわ大きく打った。まず見たのは、豪華な王冠型の蝋燭立てだった。天井から吊り下がった円盤から長短様々な金色の腕が伸びて、橙色の灯が揺らめいている。真下から見ると噴水のようにも、星の涙のようにも見えたが、目がくらんで頭部を殴られたような衝撃があったハリエットはうめき声を漏らして体をよじった。光に過敏になっている。瞼を閉じても目の前は完全に暗くはならない。光が瞼の裏に張りつき、まだ何も考えないうちに突き刺すように痛み始めた。背中はじっとりと濡れて冷たくなっている。


「…これが大胸筋だ。この骨を切断して……そう、持ち上げるぞ……」


何かを言い続けている。途中から言葉であると認識した。顔を倒すと、床に座り込む男たちが見えた。頭を寄せながら"前"と同じように一つの所に群がっている。


(……前?)ハリエットは自問する。前とはいつの事だろう。


男達の背筋は不吉な曲線を描いている。生餌に群がる獣のように、向こうから血肉が滴る音がした。肉が裂かれ、骨が折られる音。屠畜場のように、薄暗くもない、饐えた臭いもしない。糞便の臭いも、汚水の臭いもしない。それどころか昼間のように明るく、光の下で白と金が赤い海を泳いでいる。ハリエットは生ぬるい海につかって、彼らを少し離れた場所から眺めている。


彼らの姿は原野で熱弁をかわす男達に似ていた。青い草地は赤くなり、青い衣裳の美しい人の姿は無い。彼女はどこへ。男達に訊ねてみようかと思ってやめた。まだ夢を見ているなら覚めなければと思った。彼女はひとりであの小さな宮殿にいるはずだから、早く雪原に戻らねばならないと、絨毯を掴んで起きあがるが、じゅくと指の隙間から粘性の液体が飛び出た。構わず肘を押しつけて体を起こす。けれどおかしなことに、腰から下が何故か動かせなかった。理解ができず片目が痙攣する。男達は豚のようにうるさい。ひしめいて、熱気のある目を片時も、床から離そうとしない。


「断片を持ってくれ。指でつまんでくれていい」


言葉と体の向こうには真っ白い衣が横たわっている。裾からはすっと伸びた脚が放り出されていた。血を吸って白い衣裳が血走っている。違う―――彼女は紺碧の、海の底のような深い青の服を着ていた。だからこれは彼女ではない。

奥から何かの金具を引き抜く音がすると、白い脚が持ち上がった。短靴が脱げて、痙攣してあらぬ方向に極端に曲がる指が見えた。


「大量に出血させないように血管を遮断しておくんだ」


血の臭いが充満して息苦しい部屋で、金具がぶつかる音と、せわしない声がこだましている。

男達の体が中央に転がるものを隠している。ハリエットは自分の腕が、手が、何も掴んでいないことに気づいた。誰かを抱き寄せ、声を張り上げていたのに、跡形もない。

探るように半円を描いた手は血を吸った絨毯の不可思議な痕に気づく。一方に毛が倒れ、濡れてきらきらと光っている。人を引きずったあとにできる轍が刻まれている。


「おはよう、ハリエット」


かすれ声が背後からした。それはハリエットの動かない脛にあたり、背筋に走った。ぶるりと震えて、その瞬間ハリエットは再び目覚めた。


「邪魔をしてはいけないよ、彼らはよく切れる刃物を持っている。気をつけなさい。君の足の腱は切らせてもらった。大丈夫、あとで治癒してあげよう」

「……ぁ」


自分のことは思考から切り離されていた。ハリエットはこれほどまでに人が、人の体が、切断され、細かく選別されるのを見たことが無かった。それは儀式的で、淡々としていた。切傷は鋭利で滑らかだった。質の悪い刃物や腕の悪い男の切り捌きとは違う、上質な作業だった。

胸の肉はめくれて、籠のように覆う骨は切断されていた。銀の器の上に等間隔におかれている。きっと元の順番どおりに並べられているのだろう。男たちは骨の下に手を差し入れた。二つの袋は取り出す。それらはあらかじめ切断され、空っぽで、丸い口のついた花瓶のようだった。


(彼女は死してなお、――――死を頂戴しなければならないというの)


ハリエットの前で血袋を持った男が興奮気味に言った。


「とても綺麗な肺だ。ご覧ください、完璧な処置を終えて、傷つけずに取り出すことができました。あとはお好きに命を捨てて下さい。またお目にかかりましょう」


男はじっくりと彼女の顔を覗き込んでそう言った。晴れ晴れとした声だった。ハリエットは口で息をしたまま、胸部から時間を掛けて視線をのぼらせる。血塗れの胸からまっすぐに伸びる細い首、滑らかな線をえがく顎、そこから上は汚れひとつないままだった。面紗がずれ落ち、髪が頬にはりついている。膨らんだ桃色の唇が開いた。

彼女は天井を見つめ、それから自分を開いた刃物を見るように真下を向いた。ハリエットは立ち上がりかけた。彼女と目が合った瞬間、ハリエットの人生の最後の扉が開いた。彼女は生きていた。生きたまま、痛みがしみとおる体を無感動に見つめていた。





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