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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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153/413

153 雪の言葉と、

後退ったハリエットは腰を抜かし、そのまま草生に倒れた。彼女はすぐに手を伸ばし支えてくれたが、その胸に短剣が刺さっていないか必死に検めてしまった。何も刺さっていない。けれど、そらみろと男達が言ったような気がした。

助け起こそうとする彼女の腕を逆に掴み、共になだれる。ハリエットは狼狽しながら彼女を強く揺さぶった。


「どうして……どうして平然となさっているのです。あの巻紙に描かれているのは貴方ではありませんか! この者達は貴方を害した! それなのに! 意味が……本当に意味がわかりません。貴方が何度も、このような? 何度も、ご自分の体を? どうして?……これは、これは、こんなにもむごたらしいことは、ないッ……」

「彼らは人としての遊楽を退け、"医療"に傾倒しているの。一生を捧げている。それを止める事はできないわ」


片手で男達を指すハリエットに淡々とした口調が返される。男がまた何か言ったのでハリエットは不浄なものを見るような目で彼らを見た。


「次の剖検では、胸部の皮膚を切開しようと考えている。胸には大胸筋という大きな筋が乗っている。それを剥がしたい」

「貴方方はまだ! まだそのような!」


振り上げた手は掴まれる。代わりに足で蹴るが、蹴った場所は光りの粒になって崩れ、そしてまた男の形になっただけだった。


「いいの。こちらを見て。可哀想に、お顔が真っ青……向こうへ行きましょうか」

「貴方は死んだのです! 私の目の前で死んだのです」

「そうね私は死んだわ」


みずから乱した感情に呑まれ、ハリエットは女を必死に抱き寄せた。彼女の実体がどれだけあれど、大きな意味はなかった。机を拳で叩き、椅子を蹴り飛ばしたい。それでも暴れたりない感情の波が渦巻いている。彼女はゆっくりと背を叩いた。


(自分の死を許している………許せるというの…?)


もしも体を切り開かれ、皮膚を剥がされ、目玉を――――。そこまで考えて、ハリエットは喉をせりあがってきた汚物を吐き出した。


「地獄だ……こんなもの……あってはならない」


彼女はしばらく黙っていたが、そうしていると体が熱くなってきた。合わせる胸から、乳房の柔さを伝って母乳がしみ出すように、熱い液体がじわりとハリエットの肌に伝わる。


「私ね、この景色が好きなの。湖と山々……雲が峰を降りてくる美しさ。朝は特に荘厳で気持ちが良いの……、冷たい息を吸いこむと、喉が焼けるように痛む。霧の日も、雨の日も、ここにいたわ。あの白い石の柱に体を預けて、いつまでも黙ってみていると、悲しくなってきて唇をほんの少し動かすの。そうすると潮時だと思ってバートリが抱き上げてくれるのよ。嬉しくて…悲しかったわ……」


ハリエットがいくら体を引き離そうとしても彼女は腕を緩めなかった。


「私、本当はね、お兄様に迎えにきていただきたかった。露台に顔を出されて、彼方から私の名を呼んでいただきたかった。それをずっと待っていた………不思議ね。あの人たちは私にとって過ぎ去った多くの日々のひとつ…だけど、ここで過ごした日々はかたく結ばれてほどけない。体に満ちているのは、今はその思い出だけになってしまったけれど、それでいいの。それで……」

「何のつもりで、何のつもりでそんな話を聞かせるのですか? 私は嫌です! 嫌だと言うのです!」

「その優しさは貴方自身にさしあげて」


嫌だとハリエットが叫ぶと彼女はようやく腕を離した。暴れる乳飲み子を宥めるようにさすっていた手が、背中から離れて、頬にうつる。頭に血がのぼって舌がもつれて、唇の端に泡がつく。

彼女の胸は噴き出た血で黒く変色していた。紺碧の衣裳が暗い海の色になる。


「ああ、どうか、血を、お衣装を、っ、おさえますから! り、理力をすぐに!!」


ハリエットの叫びに誰も答えない。理力は体からほとばしる事は無く、火を消したように静まっている。


「お役に立てれば私の気持ちがすむの。だから、いいのよ」

「お願いですから、理力を、理力を、おねがい、こたえてください、理力を、いま、いま私に」


血は胸から腹に広がっていく。狼狽するハリエットの涙にまみれる頬に口づけが落とされる。彼女は本当に美しい。美しくて悲しい人だった。


「逢えて良かった、本当に…………目が覚めたら全部忘れて遠くへ行って。お願いだから、そうすると言って」

「あぁ、血が………流れてしまいます……」

「大丈夫。さぁ早く目を瞑るの……」

「あぁ……」


それ以上言葉を続けることができない。地面が消滅し、ハリエットの体だけが世界から弾きだされた。

円座になる男達の足が虫の裏側のように曲折しているのが見える。彼女が斜めに揃えた脚も、尻もちをついている自分も見えた。暗闇の中に落下しながら、ハリエットは手を伸ばしたが視界には何も映らない。


―――自身を概していうなら、"存在する意味の無い女"だった。生きている価値などない、生きながら死んでいるような女だった。

掃き溜めから運よく教会に飛び込み、修道女になることができても、いつまでも変わらない。


彼女の瞳がハリエットを見詰めている。対座する自分ではなく、白い世界から追放される自分を見てくれている。

桃色の唇が別れの言葉をささやいた。


「雨の後には太陽が輝くの。だから、大丈夫、大丈夫よ…」


ハリエットの胸には、彼女を抱いた感触が残った。確かに実体はそこにあった。形の定まらぬ思いも、愛らしい困惑も、いま何もかもふいになっていく。






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