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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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151/414

151 雪の夢と、

二人で色々な話をした。もちろん始めのうち、つまらない話は膨らまず、もっぱらだめだったと言っていい。情けなくなってきては黙考し、堂々巡りをした。彼女は手を合わせ、時折口を可愛らしく開けて笑ったり、驚いたりしてくれた。後から思えばそれらの仕草は、素敵な女性が持つ"嗜み"だったが、彼女の不変の美しさしか知らぬハリエットは気づかなかった。


「もうすぐ時間ね」


小鳥が囀った。時を告げる従者のようにそばにやってきて小鳥に礼を言って、彼女はさっと立ち上がる。ハリエットは火照った頬をさしむけて連れて立ち上がった。

彼女の向かう先には下生えに腰かけている男達がいた。雪原の中で、彼らのいる場所だけ青々とした原野が顔を覗かせ、彼らは車座になって地面にある何かを見詰めている。

言葉通り角を突き合わせる男の中で、木べらのような立派な鹿角をもつ男が顔をあげる。掲げた両手で何度も宙をなぞっている後姿は、声楽隊の指揮者を思い起こさせた。彼らは草をむしる遊びに興じているのではなく、勢い立って胸を張っているのが遠目からでもわかった。


「熱心にお話をされているでしょう? 時折お茶をさしあげるの。どんなお話をしているか聞くのだけれど、私では興がらせるに足りないのね、すぐに放られてしまうのよ」


慣れたように雪を踏んで歩く彼女の後ろで、ハリエットは無意識に首をすくめた。細い足跡を踏んでも同じ歩幅でゆくことに苦労する。宮殿から一歩出ただけで冷たさが喉奧までやってくる。

ふと湖面を見ると、風景の中に際立つものが含まれていることに気がついた。何が現れても可笑しくはない場所ではあったが、湖面に在るものはハリエットの心を凍りつかせるに充分だった。


広大な空に月が浮かぶ。白い月の真下に男が蹲っていた。男は精々中肉の、陳腐という言葉が似合う姿をしていた。役立つものが何一つないような、ハリエットと同じ匂いのする背中を丸めて氷の上に跪いている。

必死に腕を動かす男――湖面を叩いているようにみえる――の足元には、湖のへりから伸びる曲折した何かの痕があり、異様さと相まって怖ろしい物に見えた。


ハリエットは緊張して詰まった喉から意識して空気を吐き出した。空咳が雪原に響き、前を歩く彼女は足を止めて気遣う。男のことを訊ねると落ち着き払った顔が湖をみて、ふわりと微笑んだ。「貴方の前に来た御方よ」――嬉しそうに細められる目から放たれた目に見えない意志のようなものが、ハリエットを挫かせた。


「彼ね、三つになるお子様をお持ちなのですって。貴方より少し前にいらして、船に乗り遅れてしまったと随分落ち込んでいらしたけれど、ご自分で船を御造りになるって言って今は湖面を割っているところよ。湖は神聖な場所だから、お兄様がお帰りになるまえに急いでって言ったの。そしたらね、今度こそ妻子に逢えたら一生離しはしないって、だから必ずやり遂げるっていうの」

「………」

「なんだか私が嬉しくなってしまったの。制約があって、難しいとわかっていながらやめられない。心を捧げる人の為に、篝火があの方を力強く立たせている。とても美しいことだわ……」


空想の作法にしてはすべてが精巧だった。彼女の言葉も、腕を振り上げる男の後姿も。

ハリエットは、同じ衣裳を着ていた男を知っている。血だまりの中で横たわる姿をはっきりと思い出せる。襟足の跳ねた髪も、右にうずまくつむじも、扉越しにきいた断末魔さえ覚えている。


「あの男が死んでいるのを……見たのです」


再び歩きだした彼女は振り返らずに、ただ「うん」と言った。

知っている。彼女も知っているのだ。ハリエットは彼女の胸に短剣が刺さっているような気がした。日差しを受けて白く反射する眩しい雪に、赤い色はない。どこにもない。けれど体は、予感される悲しみを先に受けて苛まれた。


「お家にもご招待したいけれど、汚してしまうから……お父様は……いいえ、貴方はおうたはお歌いになるかしら。それとも詠まれるの」

「…いえ、私は取り柄のないものですから……」

「私、夢は見ないの。いえ、ここが夢なら見ているということになるけれど……みんなここにくると、心から為さりたいことを始めるの。私とよしみを通じた時の気持ちのまま、ここにいらっしゃるからなのだと思うわ。私はここで外の事を感じることができる。だから、私のために怒ってくれた貴方をみていたわ。今も私を選んでくれていること、とても嬉しいの」


でも――、と彼女は言わなかった。けれど声色はそう語っていた。言いようのない悲しみが覆われているように思えた。彼女は言葉を選んでいる。核心を避けるように。

一人喋り続けていた彼女は男達のそばにやってくると、ぱちりと手を叩いた。男達は顔をあげない。女の心持ちをよそに感情を昂らせていた。


「みなさん、少し休憩なさって」

「次に頭部の剖検について」

「いつもの紅茶でいいかしら」






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