150 意味のない時と、
「ただひとつはっきりとしているのは私が悪いという事なの。次はもっとたくさんのお花をくださるつもりなのね。でも充分にいただいたわ。ほら、花瓶には一輪。水をさす必要はないの」
澱んだ川の隅で咲く一輪の花を有難がる姿に、ハリエットはこの花が枯れないのだと気づいた。
空も、湖も、湖面から伸びる雪原や、雪のかさを被った樹木も、彼女が描いた絵画のようなものなのだと、そう思い至った時、彼女がどうして幼子のように自分を見るのか、ハリエットの情感に閃きが宿った。
「ここは………貴方の、貴方だけの場所なのですね。私も、きっと……」
言うまでもなく、雪の音をきく白い手が伸びてくる。震えながら浮き上がるハリエットの手首をとって、緩やかに膝上に戻した。透明な拒絶がふたりの間にあった。
「来ていただいて嬉しかったわ。どうということはないの。もし負い目に感じているのなら、儚む必要はないのよ。どちらにせよ私は死ぬ。そのことに変わりはないの」
「どちらにせよ? どうしてそんな風にご自分のことを悪し様に言うのですか。そんな事を口にするほど追い詰めたのは誰なのですか? 龍下ですか? あの男たちですか?」
「違うわ。怒らせたかったわけじゃないの。こわいことを言わないで。どうか、それ以上私のことを考えないで。私を見ても、貴方の重荷になって、縛り付けて、最後には壊れてしまう」
「生きていると仕方のない事が起こるということは分かります。充分にそんな生涯を過ごしてきました。けれど、貴方がそこまで彼らに心を配る必要がどこにあるのですか? 貴方様こそ私を見てください」
「拘泥なさらないで。私は卑しいの。罪を償わなければならないにんげんなの。その為に、私は純粋にここにいる。強制されたことではないわ」
「ここにずっと? こんな寂しい場所で、おひとりで」
「貴方みたいに訪ってくれる人もいるもの。ひとりではないわ」
「そんな顔で何をおっしゃる」
「あっ」
ハリエットはたまらず抱きついた。彼女は腕の中で少しだけ強張ったあと、肩に頬を預けてくれた。いくらか前屈みになった不格好な体勢で、自分の運命に無関心な人を抱きしめる。挑むような力がハリエットにはあった。けれど触れる場所から、霞んで消えていってしまう。どれだけ抱きしめても、彼女は抱き返してはくれなかった。
本当は彼女をもっと強く、我儘に抱き寄せたかった。自分が男であればそれができたのかも知れない。体が大きく、力強く、強引で、遠慮がない男であれば、彼女を連れ出すことができたのかも知れない。どうすれば彼女と対等になれるのかわからなかった。寒々とした白銀の世界で、ハリエットを拒む彼女は、自身さえ拒んでいるように思えた。そんな風に悲しみのなかにいてほしくなかった。
「……貴方の心が欲しい」
彼女の手は元の場所から動いておらず、肩口に埋めた顔も窺い知ることはできない。抱きしめていても空しさを埋める事はできない。彼女の前で何一つ成功していなかった。その事実はハリエットの心に冷たい風となって通り過ぎていった。
「せっかく来てくれたのだから、貴方のお話が聞きたいわ」
ハリエットはどんな話をしていいかわからなかった。する気もあまりなかった。彼女はそれを察したのか、明るくのびやかな声でハリエットの気を引く。
「ここにはね、雲の形、満開の花、苔生した湖畔、葉群の黒ずみ、木立の壁、隅々まで私が思い浮かべられるものだけがある。ある人はね、貴方みたいにここを寂しいと言ったわ。自分好みにもっと飾ってはどうかって。でも私にとっては充分美しいと思える。石も木も、冷えた空気も、みんな一つになっている。いずれも塗りつぶしたりなんてできない」
「ごめんなさい……寂しいなんて言ってしまって、ごめんなさい……」
「ううん、でもありがとう。私もごめんなさい。貴方は生まれて初めてすべてを賭けるものを見つけたと、そう思ってくれているのに」
「そうです。貴方です。それをわかってくださるのですか…」
微笑み、女らしい細やかな声で彼女は言った。
「みんなそうおっしゃるもの」
「…みんな?」
肩口から顔をあげた彼女は、嬉しそうに振り返った。湖のほとりに石造りの堅牢な邸が建っていた。邸の手前は庭園になっており、雪の帽子をかぶった生垣の間に鉄扉が見える。湖の中に続く石の階段や桟橋は、雪解けを迎えれば、周囲の山々と美しい水面が一枚の絵画のようになるのだろう。
「あの邸は」
「あちらにはお父様がいらっしゃるの」
「……今も?」
「私はここで、廊下を歩く音や、扉が閉まる音、お父様が走らせる羽根筆の写字の音を聴いているわ。なんだか、増々貴方を悲しませてしまうけれど、それでいいの……さぁ次は貴方の番」
「……番とおっしゃられても」
「何でもいいの。なんの不都合もないのだから」




