15 糸紡ぎの女の子と、
国境を跨ぐホープリー山脈のそば、緩やかな斜面を流れるマーニュ川に沿って「にんげん」の集落があった。
マーニュ川は国を東西に二分する大河で、流域には文化・経済あるいは軍事的な価値から多くの城が建てられた。南北から「蛮族」に攻め入られる所謂暗黒期にあたる日々が堅牢な城の必要性を押し上げたといえる。
川が大きく湾曲する地点には急峻な山があり、半島先端の岩盤の上に建てられた城は国で一番の堅牢さと謳われた。崖側からの城攻めは不可能、そのうえ背後にあるホープリー山脈は神の寝床として知られており、禁足地だった。
城は三重の城壁を持つ戦闘用の作りであったため一度も踏み込まれることはなかったが、民衆の手によって支配者は討たれることとなった。
この地を支配したのは「龍の姿をした神」を崇敬する教徒たちだった。
彼らは城壁の最奥に新たな聖堂と大尖塔を建て、いくつかの館で暮らし始めた。城壁や、山上から山腹にかけて曲折して伸びている石塁はそのままに、周辺には麦畑とぶどう畑などの果樹園が作られ、牧草地には羊や牛が放たれた。
今やアクエレイルと呼ばれるようになった都市は外から訪れる者たちに開かれ、宗教的、文化的、経済的な機能が集中した国内最大の都市となっていた。青い石葺き屋根は市壁の外側にも広がり、在りし日の城塞都市の姿を覚えている者はいない。
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ルクレチアに憧れなんてものはなかった。
彼女が生まれた小村は聖域に通じる巡礼路のそばにあり、幼いルクレチアは巡礼者の足を水で清め、旅の無事を祈る儀式をよく手伝わされたが、彼らが何を考え、どこを目指しているのかなんてことは興味が無かった。
ある日、糸紡ぎを終えたルクレチアが工房を出ると外の様子がいつもと違うことに気づいた。大人たちはしきりに教会の方を見ては立ち話をしていたが、遠巻きにして近づこうとはしない。誰かが来ているなら行けばいいのにと唇を尖らせながら何人か追い抜く。幼い目には奇妙な光景でしかない。
教会の前の三差路までやってくると丁度扉が開き、外套をすっぽり被った男たちが教会から出てきた。みな同じ外套を被り、二列になって馬車まで進んでいく。明らかにおかしな集団にルクレチアも足を止めた。巡礼にしては大集団すぎる!と洗う足の数に勝手にぎょっとしていると、外套の人たちが振り返り、お互いの間に三人分くらい幅を開けて離れた。まるでお葬式の列ね。扉から棺でも出てくるのかと見ていると、続いて出てきたのはルクレチアが生まれて初めて見るものだった。
見るからに温かく柔らかそうな上等の服をきた男の人だった。深い青に染められ、縁に刺繍が施されていた服が集団の中で浮き上がるように輝いていた。
ルクレチアは混乱した。時折村にやってくる大きな石の耳飾りを自慢する商人のように品の無い宝石をつけているわけでもなく、とっても落ち着いた色の服を着ているだけなのに、目を離せなかった。
大きく口を開けながら思わず自分の薄汚れた服を握りしめる。ルクレチアは暑くてもいつも同じ服だ。寒くても服を重ねて着るだけで充分なのに、男の人が着ている服は自分の服とはまるっきり違う。何でできているのか想像もつかない。それにあんな綺麗な服を着ていては畑仕事はできないし、こんな村を歩いているだけで浮いてしまう。仕事をする時はどうするのだろう、もしかして裸になるのだろうか、なんてばかみたいなことを考える。口にしないのだからいいのだ。
青い服をきた男の人はなんの種族の人だろう。見た目だけじゃわからない。外套を着込んだ男の人たちが守るように立っていたから、えらいのかも。村長よりえらそうだ。外套の人たちも足先までほとんど隠れているからどんな種族かわからなかった。青い服の人は髪が短いからギンケイ族ではなさそう。もしかしてあの衣の下に鱗があるのかも知れない。
ルクレチアは自分の鱗の生えた腕を興奮で震わせながら、一団をもっとそばで見るために教会の柵の前に移動した。
柵に隠れるようにしゃがむと、御者が見えた。御者まで外套を着ている。それに馬の背にも青い衣がかけられていた。男の人よりかは薄い青色だったが金糸の刺繍が入っていて、村で畑仕事に使っている馬とは大きさが違った。
青い服の男の人が馬車の前で立ち止まった。左右に控えている外套の一団はお互い向き合っているので、教会の庭のなんてことない雑草の生えた道が重々しい儀式の場に変わったみたいだった。
その時丁度、村の鐘が鳴った。一回、二回、三回、いつもと同じ鐘の音が余韻を残す頃、もう一人の「青」が現れた。
「……きれい!」
両開きの扉の奥からたっぷりとした下衣の裾を引きずりながら現れたその人は、花嫁のようだった。青い衣の男の人も、外套の人たちも、村の皆も、全員がこの人を待っていたのだ。ルクレチアは思わず「うわぁ」と感じ入った声を漏らしていた。
青い衣をきた女の人が、外套の人たちの間をゆっくりと歩いていく。金糸の模様が入った帯を頭に巻いて、肘まで垂れた薄布が顔を隠していたから顔はよく見えない。でも、足先まで伸びた下衣のひだが波紋のように流れて、ルクレチアは感動のあまりしきりに目を瞬かせていた。目も口も渇く。でもそれどころじゃない。
薄布の向こうに透けて見える上衣には金の胴締が巻かれ、腕を隠す白い手袋も、嘘みたいに汚れのついていない白の短靴も、何もかも整っていた。美しさというものを初めて突き付けられたと思った。青い服の男の人も綺麗だったけれど、そんなもの霞んでしまうくらいだった。花を持っていないのに、花嫁だと思った。
幼いルクレチアはとっても聡い女だったので、外套の男の人たちであの女の人を守っているんだわ!――と、閃いた。絶対に当たっている。すすけた色しかなかった村の中で、こんな綺麗な色が存在するなんて思ってもいなかったルクレチアは、強烈な「青」に心を奪われていた。
青い衣の二人は馬車に乗りこむと、一団はあっという間に巡礼路に去った。ルクレチアは巻き上がった砂埃も構わずに村の端まで一団を追いかけ、姿が見えなくなってもその方角を見つめていた。興奮がすぎるせいで顔が痛むくらいにこにこしていた。
そばには同じように一団を見送る大人たちがちらほらいて、その中に同じ糸紡ぎをしているフェラーラを見つけるとルクレチアは興奮気味に友の袖を引っ張った。
「ねえ、この道の先には何があるの!?」
友達はいつも奇妙な形の帽子を被っていて、ルクレチアはいつも止めた方がいいのにと思っていた。顔を合わせる度に声に出してしまうのでよく喧嘩になった。
フェラーラはルクレチアを見下ろして鼻を膨らませると、腰に手をついて胸を張った。「なによ、やんの?」とルクレチアの頬も膨らむ。
「バカね知らないの? 一番大きな町があるのよ! あんたがバカにしたこの帽子はそこで大人気なんだから! ちょっと! なによ、触んないでよ! 今頃謝ったって! ちょっと喋ってんでしょ!」
「謝るわけないでしょ! ちょっと被らせてくれてもいいじゃない、ケチ!」
「はぁ?!」
取っ組み合いの末に止めに入ったフェラーラのお父さんからその町の名前を教えてもらった。
巡礼路の終点には聖域と呼ばれる場所がある―――首都アクエレイル。
この日からルクレチアの憧れは始まった。




