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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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149 花と、

否応なく対座させられ、ハリエットは手遊びをしながら俯く。気恥ずかしさがしばらく往来し、しきりと瞬いた。視線を少し外に出向かせるだけで、紺碧の衣を飾る金糸の刺繍までよく見える。下衣は柔らかく、彼女の脚に張りつきながら床に流れ落ちている。まるで彫像のように、人が留めておきたくなる美が生きていた。

肌の熱さえ感じられそうなほど距離で、ハリエットは生まれて初めて息を吐くのを躊躇うことがあると知った。


衣裳にはおそらく上質な、手縫いの技法が詰まっているのだろう。そんな事に無関心に生きてきた目にも、鮮やかに迫ってくる。これほどまで美を怠らない人の隣にいると、自分の心が震えてくるのがわかる。しかし自身への嫌悪はハリエットの心から引き離されていた。彼女が心を見開いてハリエットを見ているからだ。井戸端でこちらを見ては笑う女の声も、通り過ぎながら足をかけられたり、唾を掛けてくる男たちとも違う。彼女が見つめてくれるだけで、こびり付いていた精魂の影は跡形もなく消えていった。

ハリエットはただ紅潮していた。しきりに、指を絡ませ、どのような気持ちで顔をあげればいいのか、いつまでも踏ん切りがつかないでいる。


「また逢えて嬉しいわ」


甘やかな囁きが、そよ風となって撫でた。

いつまでも俯く不躾な態度が急に申し訳なくなってハリエットは急いで顔をあげた。


「私の事わかるのですか?」

「お花をくれたでしょう。真っ赤な一輪を。ほら見て。こうして飾って皆さんに見ていただいているの」


大理石の丸机に、丸い口を広げた細い花瓶があった。赤い花が重い首を傾けて咲いている。薄葉が幾重にも重なって咲く花のありさまは、たった一輪でも過ぎ行く日々を艶やかに彩る。真っ白い石の宮殿の中に、それは忽然と現れたように思えた。

花径はてのひらほどある。生々しく浮き上がる花弁には端から染料をしのばせたような滲みがあり、それは中心にいくほど薄く、翼を閉じた小鳥のように閉じた中心は真っ白だった。まるで純白の衣裳が鮮血を啜ったような―――、いえ。ハリエットはそこまで考えて、やめた。知らぬふりをして美しいとは言えなかったが、彼女もまた、半ば冗談のつもりでそう言っているようには思われなかった。馬車でのできごと、大聖堂でのむごたらしい顛末、言うべきことが頭の隅に蘇り始めたが、ハリエットは花を見つめながら、柱の影が彼女を避けるのと同じように、言葉にすることを避けた。


「驚きました……本当にお花みたいで」

「この庭にはたくさんのお花が咲いているけれど、貴方がくれた花はこうしていつまでもそばにいてくれるわ」

「…………」


黙りとおす間、遠くで鳥が鳴いた。彼女は柱の向こうに広がる景色を眺めていた。くびれた腰を羽毛の調度品にゆだね、寒々とした凍り日に束の間さした陽光を見ている。その姿は衣裳、腰帯、靴、髪の結びにいたるまで飾られている。

空に白鳥が舞っている。湖面は凍りつき、万物を拒絶しながら果てなく続いている。荒々しさや、獣じみた匂いもなく、静かな場所だった。


同じように眺めていると、乱された心のうちが凪いでくる。治まって、浮き上がってきたものをぽつりと口にする。空の青さを映さない白い海は途方もないようで、逃げ場がないようにも見えて苦しくなった。


「ずっとお目にかかりたいと思っていました」

「叶ったわね」

「……お逢いしたかった。声をお聞きしたかった……お顔も、なにもかも……本当のものを」


口に熱がまわってくる。


「お願いだから、いっしょに逃げると言ってください」


いつどこで身に着けたかもわからぬ情動が渦巻いていた。渦は彼女の嫋やかな体に巻きつく。彼女の目はゆっくりとまわり、ハリエットの汗か涙かわからぬものを拭った。虚しさが身をほとばしる。


「迷惑ですか」


逃げる――逃避という曖昧な言葉には耐えられぬような弱さがある。おそらくハリエットがもっと賢く、知恵があり、体裁などを弾き返すほどの満ち足りた力があれば彼女を頷かせることができたのかも知れない。ハリエットが持っているのは無知だけだった。その無知が弱さを忘れさせ、情動を突き動かしている。彼女が頷いてくれるだけで世界が覆るとわかっていた。


ところが彼女は、輪郭のはっきりした美しい顔立ちに笑みを浮かべて、ともかく必死に言い募ったハリエットの表面を撫でた。是も否も口にせず、それどころか幼子の描いた絵を見るように、不出来な部分を見ずに、個性だけを褒めるようなことを言った。ハリエットがあからさまに放心すると、それも笑う流し目がハリエットを心変わりさせた。口惜しい、どうして頷いてくださらないのですか。どうして。口惜しさは己の情けなさにすぐに転化した。彼女は自分ではない。自分も彼女ではない。自分ではない相手をどうしたら思うようにできるのだろう。気持ちが伝わらない事がもどかしく、気づけば口をきつく結び、涙を耐えるような、怒りをぶつける前のような顔をさらしてしまう。






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