147 突き刺される命と、
「あの隅で転がっている男は私達と志を同じくする者でした。けれど彼女を"ひらく"ことを躊躇った。事も有ろうに彼はやめるよう懇願し、私達が頷かないとわかると最後には自死を選んだ。傷つけるくらいなら自分が死んだ方がいいというのです。なんと、なんと……なんと愚かで苦しいことか。彼の医の知識はこれから先、多くの者を救う筈だった………本当に愚かなことをしたのです」
縷々と説く男の顔には、真っ当な憤慨と悲しみがあった。
「理力がどのように人体に影響を及ぼし、治療をおこなっているのだと思いますか? 貴方は先程龍下に傷を負わせた。あの方は治癒術で一瞬にして元に戻された。しかしそれは表層でのこと。失われた血液は戻りません。理力は理力で補える分しか治すことができない。万能では決してないのです。神の力のように見えても、その実、病を完治させることはできない。この国を襲った疫病にも、理術は無力だった…………」
男は急に俯きかかったが、顔を背けた。次に戻ってきた時はいかにも冷たい誇りが煌めいていた。
「理力持ちは少なくなっているのです。いつか、この力はほとんどの者の手から離れるでしょう。その前に私達は理力に代わる"医"を創り上げなければならない」
男はハリエットの髪を掴むと、彼女の胸元がよく見えるように、膝をつき合せる輪の奥へと顔を引き寄せた。
「この方は神より遣わされたお方。人という理の外に生きる、まさに濫觴の民、命の源が人の形をなしたもの。この方の献身のおかげで、医は確実に進んでいる。お前が奪おうとしたものは、この方だけではない。遠くはるかに生まれる命さえ消し潰そうとしたのだ」
白布に拭われる短剣が、刀身を鈍色に光らせている。肋骨をおさえる指と指の隙間に、真っすぐにあてがわれた。
「一息に」
男達が頷き、そして、起こった。その時、面紗の内側がはじめて膨れ上がった。これまで自身を傍観していた純白の少女が、何か叫ぼうと口を必死に動かし始めた。彼女が動くたびに面紗が震え、壮絶な蒼然が透けて見えるようだった。声は出ない。いや、出せないのだ。ハリエットのように。昂った手足がばたつくと男達は無言で押さえつける。ハリエットのように。
面紗に描かれる灰色の絵は、涙だった。
床をうつ音がなくなると男は首に手をあてて、「亡くなりました」と言った。茫然とするハリエットの膝に生温かいものが触れた。真っ赤な血が青苔が生えるように広がっていく。
「ッ、おまえたちが殺した! 殺したのでしょう!?!!」
ハリエットは帯をまとう。男達に向けて雷のごとく理力をほとばしらせた。「帯っ」と誰かが叫んだ時、ハリエットは拘束を吹き飛ばしていた。爆裂は放射状に広がり、部屋のあらゆる物はなぎ倒された。男達は身を守ることもかなわず、切り刻まれた体から血を噴出させながら倒れた。部屋は一瞬で赤く塗り尽され、中央に座るハリエットの緑の衣だけが満ち足りた怒りをまとう。その目は対座する男を睨んでいる。
男のがかざした手から光の粒が飛び、呻く男達の傷はたちまちに癒された。ハリエットは短剣が突き刺さったままの女を抱き寄せる。玉座にいる男はそのような動きを、見守っている。
くたりと事切れた体から血が無限に流れ出ていくように思われた。ハリエットは眼の奥まで赤くしながら、真っ赤な顔をして叫んだ。
「貴方は立派な正道を御歩みになる方だと教わった! 多くの者がそう信じていたのに!」
「そうだ。けれどそれだけではいけないのだよ」
「貴方たちが何を言おうと、どんな正しい言葉を使おうとも、許されないことをした! 口を塞ぎ、意識を奪って、なにが献身か!!」
「彼女が居なければ、私達はこれほどまでに医を発達させることはできなかった。彼女が居たから私達はこれ程までに大胆なことを行える」
「まだ言う!」
「どうしてお前が世話係に選ばれたか考えたことはなかったか? このような美しい衣を着て大事にされる子に従者がいないのはおかしいと考えはしなかったか?」
ハリエットの意識の隙間につけ込んで、沈殿した思いに触れたことを龍下は感じ取った。龍下の低い声は、ハリエットの人生の根底を覆すに足るものだった。
「お前を拾ったフラーケ教会は様々な病人を集めた下獄として私が立ちあげた。お前は集められた病人の一人だ。祈りのすぐかたわらに死の匂いを感じたことはないか? お前からも同じ死の匂いがしている」
言葉を感じるやいなや、ハリエットの脳裏に龍下を初めて見かけた日のことが思い出された。世話係を命じられた時、馬車の中から老人はこう言った。
『病気は治ったのかな』
隣で平伏していた司祭はなんと言ったか。そうだ、『いいえ、まだ治っていません』と否定を返していた。
「可哀想なハリエット。狂いの者の中に在って、お前の生活が砕かれてもお前は返す言葉も知らなかった。お前はあれほどの生きづらさを受け入れて過ごしてきたが、世界はそれほど薄汚くも、救いがないわけではないのだ。わざと掃き溜めで生かされ、そのような人生をお前は与えられただけなのだ」
可哀想に―――あの時と同じように、男がまた同じ言葉を繰り返した。
「ハリエット、哀れな修道女よ。お前の体にある黒ずみは過去に受けた暴行の痕だと、司祭から説明を受けた筈だ。しかしそれはお前の命を蝕む病なのだよ。自然に治ることは決してない。我々はその病を壊死と呼んでいる」
ハリエットは汗にまみれた顔を歪めた。




