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146/413

146 認識の転変と、

誰かが息を飲んだ。遅れて、龍下と互いの顔を交互に見て、晴れ晴れとした顔でそれぞれ頷いた。全員が女を視た。


群がる視線のなかで、壁を叩き、ひとところ爪をかけようともがいた。ずるずると落ちる手の跡が赤く残され、透明な壁の存在を宙に浮いた血がつきつける。牢獄は高くそびえたっていた。


ハリエットの鼻をふと臭気が香った。唾をのむ音が聞こえる。振り返ると、女の体をことごとく手に入れようと腕が伸びた。酒を飲んで乱暴をする男のように、服を掴まれ、ハリエットは不自由になった。


歯がみをして暴れても、すればするほどもっと多くの痛みが返された。御白さまは人がごった返す向こうで、うなだれ、じっと床を見つめている。男達は絨毯の上に倒れていた男を部屋の隅に運び、空いた場所に彼女をあてがった。手を取り、腰を掴み、背に手を添え、面紗が零れぬように整える。おびただしい数の男の手が触れていた。彼女は落ち着いている。されるがままに天を向き、横たわった。横から見る面紗は鼻の頂から唇の小さな膨らみまで美しい道筋をたどり、女の生を封じていた。ハリエットは顎を掴まれたまま引きずりだされた。羽交い絞めにされ、前髪を切り落とされる。


「ご自分だけが苦杯を喫しているとお思いなのでしょうね」


男の深い吐息が顔にかかった。


「到底一人では生きていけない修道女が、どうしてこの方を連れ出そうというのです。良い気になって」


乾いた血のついたままの顎をつきだし、唾を吐いた。唾液の塊は男の手首にかかったが、飛沫が顔に飛んだ。引き攣る男の顔は影を濃く刻んだ。


「もういいでしょう?」と体を押えつける背後の男が、動作とあべこべな事を言った。言われた男は眉をつりあげた。


「よくありません。この女は自分が正しいと思っているのですよ。我々は悪魔だと思っているのです。そのような誹りを、嘲りを、私達は耐えてきたことも知らず。我々がどのような思いで……私はお前が憎い。お前のような無知が生きているだけで虫唾が走る」


思案する間があって、男は「よくよくご覧なさい」と言って御白さまの上衣に手を伸ばした。周囲にいる男たちは、ひろがる白が犯されるのを間近で見ている。

純白の衣裳は短剣によって既に切り刻まれており、ほつれた糸が寝乱れた髪のように散らばる。薄い肌着が胸をかすかに隠していたが、男は隙間に指を差し入れ、白波を腕の方へ退けた。一対の乳房がこぼれ落ち、ハリエットの感情はたちまちに乱れた。


ふたたび激しく暴れる女を見咎め、龍下は玉座から指をひとつ上下させる。異を立てる口が空圧によって封じられ、言葉にもならない音が喉奧から生まれた。彼女の真横に膝をつく男が、揃えた二つの指で胸の中央を、骨に沿ってなぞった。


「これが鎖骨。わかりやすい骨です。中央から真下に伸びるのが胸骨。体の内側を守る骨です。背中側にある骨は胸椎といい、頭部を支えています。背中から鳥かごのように前に湾曲して広がる骨が、肋骨です。上から第一、全部で第十二まであります」


女の体を書物のように開き、男達は諳んじていく。


「胸を開く前に、準備の体勢に整えましょう。腕を曲げて、手の甲を下に。肩をゆっくり内転させて肘を顔の高さまで。お嬢様、息をゆっくりと吸って、ゆっくりと吐いてくださいね」

「私は脚を担当致します」

「私はお手を。さぁ、握っていてください。一人ではございませんからね、私達がついております」


まるでこれまで長い時をかけて蓄積してきた物があると、男達は語っているようだった。連携しながら静的に手順を口にし、手足を広げる女のそばに跪く。それは無遠慮ないざり寄りではなく、死に際の老人のそばで詩歌を囁くような哀しい優しさがあった。


「な、なにを………」


血を滴らせた唇から、こぼれ落ちた声に隣の男は嘆息して答えた。


「ようやく落ち着かれましたか。これからあの方の死を戴く儀式をおこないます。向後は慎みなさい」


声もでなかった。口が封じられていたからではない。理解ができなかった。


―――死を、いただく?


「人体の急所をいくつ御存じですか」


―――問答を予測して、先に脳が弾きだした。踏みつけられている足から血の気が引く。それよりも先にハリエットの顔は青白く染まった。


「人を故意に殺めるには想像するより苦労が多いのです。失敗すれば、苦痛を長く与えてしまうことになる。例えば心臓は胸骨で守られています。手のひらに乗せた雛のように指先に覆われている。だからその間から刺す必要があります。次に肺も、守る肋骨を折って刺せば呼吸ができなくなります。でもそれは苦痛を与えてしまう。頭もいけません。体だけ生きてしまうことがあります。他にも神経が集中している場所も急所です。こうした知識は広く知られていることではありません。死後であれ人体を損なう事は禁忌とされてきました。不思議だと思いませんか、私達は儀式といって人を生きながらに燃やしたり、埋めたりするのに、医療の為に人体を開くことは禁じられているのです。罰を与えるために首を切り落とすのに、腫物を取り除くことも許されない」






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