144 いとしいこと、
龍下の狂乱は余白をいっぱいに埋め尽くし、力いっぱいハリエットを締め付ける。男はハリエットの体を勝手に触り、動かし、思うところに刃先を向けた。
つまり人殺しの準備が整えられていく。
眼探るまでもなく、自分の手が誰を殺めようとしているのかわかった。ハリエットの心は手拭いをねじるように侵され、たじろぎが思い思いに溢れて収拾がつかない。息苦しさに喘ぎながら「…何の為に」やっとそれだけ絞り出した。意味の無い問答だった。頭が働かない。龍下は満足の笑みを浮かべている。庭の花を愛でるような目で。
重なり合う女の腹に差しこまれた白刃が、女体に吸い寄せられていく。傷つけてしまう。ハリエットは必死に抗った。
はくはくと息を上げるハリエットを抱く御白さまは、気高いままに髪を梳いている。丁寧に繰り返される動きの穏やかさが、これから起こる事をわかっていないのだと感じさせた。頬を伝う涙は彼女の代わりに流れているのだとハリエットは思った。
絨毯の上に着ぶくれた男が倒れ、衆目の前で白刃を向けられてもなお落ち着き払う彼女は今何を想っているのだろう。
人となりがはっきりと消え去ったような今の姿が、本当の姿ではないことを知っている。はっきりと言葉をしゃべり、身分の高い妻女のようにハリエットを見据えた美しさは、心をとらえて離さない。龍下だって知らぬはずがない。
今のような境遇に身を置くことを狂おしく拒絶したいと、その合図がどこかに出ている筈だ。それを見逃しているのだ。彼女を救う事ができるのは自分しかいない。彼女が植え付けた密かな自惚れはハリエットの中に息づいている。彼女に選ばれたい。彼女を選びたい。本当の貴方にもう一度出逢いたい。
(―――――ほんとうの、)
絶望を退ける何かが胸に灯った時、そうとは知らず刃物と女の体は互いに引き合っていた。
白波をうつ衣裳を押し開き、到達した薄い腹の感触をハリエットの手はありありと感じ取る。肌に触れた刃は腹をなぞり、白糸が編み込まれた重い裾をめくると、内側から食い破るように容易く引き裂いた。男はそれを繰り返し、時間を掛け、あれやこれやと場所を変え、楽しんでいた。
一瞬、路地裏の一角で寝泊まりしていた日々が思い出された。その記憶は記憶と呼ぶには余りに価値の無いものだった。黒目が膨れ上がった男が腰にまたがり、脂ぎった手で胸をまさぐる。肉を変形させるだけの無駄な行為が続き、汚水の臭いすらかき消す男の口が肌を滑るあいだ、ハリエットの目は虚空のほか何も見ていなかった。記憶というその薄汚い閃きは、龍下に重なって見えた。
ハリエットは龍下が刃物を手前に戻した瞬間に、腕を引き抜いた。とびすさる肘は龍下の衣裳をかすったが、老人の手は弾かれた。絨毯に血がしたたり落ちた。老人は手をひらりと返し、裂けた傷口を見て笑う。上機嫌だった。
御白さまを逆手で抱き寄せ、背中に庇う。無理やりに引っ張り上げて立たせると、短剣の先を男達に向けて、後ずさる。二人と扉の間には誰もいない。ハリエットは牽制しながら短剣で空を斬ってから駆けた。しかし出来事は次々に起こった。二人とも弾き返されて、もんどり打って倒れた。見上げると扉の前に揺らぎがある。足で蹴り上げると、見えない壁がそこにあった。
「刃物を扱う時は注意をしろと教わったことがあった。懐かしい。思い出させてくれてありがとう、ハリエット」
「思い切りのいい動きだった。いや、大したものだ」と、直ぐに治療して元通りになった手を振る龍下に男達は笑い始めた。肩を叩きあって、口元を覆いながら目元を弓のように引き絞る。
魂をかき消す嘲笑に、ハリエットの心は削られてしまいそうだった。御白さまを抱きかかえ、もう一度膝をつき上げた勇敢な女を見て、玉座のそばに立っていた男が笑いを残した口元でこう言った。
「素晴らしい見せ物をありがとうございます、龍下。そこのお方、鍵は開いていますよ。廊下には誰もいやしません。階段を下りていけば外に出られましょう」
赤子の拙い歩みを見守るように手を叩き、男は「ほらもう一度試してごらんなさい」と顎をあげて催促する。それを皮切りに男達が口々に騒ぎ始めた。
「あぁ、なんて頑是ないのでしょう。若い時に初めて祝福をいただいた時を思い出すようです」
「貴方もですか。私も初めは驚いてしまいましたから。今思うと大変情けない姿をさらしてしまったものです。いやお恥ずかしい」
「貴方は血が苦手ですからね。お気になさいますな。得手不得手というものもございますから」
「若い時はそうだろうとは思います」
「いつ頃ですか? お慣れになったのは」
「堪えておりましたら御渡りになってくださったのです。それから。あの方は絵を描いていらっしゃいました」
―――――あの方、――単語が耳に入る。




