143 本当の顔と、
「誰かと訊いている」
苛立つ声がかかる。
ハリエットは壁に背を預けている男が喋っていたことに気づいた。白と橙色の衣裳を着た、執行部の男だ。連れてきた男とは違う。
ハリエットは小さく叫び声をあげた。執行部の男は床で呻く男を、わざと聞かせるように「死ね」と言って腹を踏みつけた。空気が抜けるような音を最後に男は動かなくなった。「それで」と男が外套を翻した。
「ハ、ハリ、ハ、ッ、ハリエッ、ト」
「ハリエット…? あぁ」
男は続き部屋の扉を叩くと「御所望の女が到着しました」と言った。
執行部の男が扉を大きく開くと、濃厚な厚みのある服を着た男が従者を連れて入ってきた。整った美しい部屋で腹這いになって動かぬ男を見て見ぬふりをして、御白さまを見たあと、ハリエットを見てにこりと微笑んだ。ハリエットは縮み上がった。
「龍下…!」
白髪髭、純白の三衣、そして司祭冠。
肩から足元に掛けて垂れる深紅の帯は鮮血のように鮮やかだ。
白と赤―――この国を統べる者の色をまとった老人が微笑んでいる。
ハリエットは必死に平伏した。龍下は帯を解き、重たい外套を脱ぎ捨てた。しゃらしゃらと装飾が鳴る。
ハリエットは毛の長い絨毯に頭を擦りつけ、目はしっかりと見開いていた。夢を見ているような気がした。御白さまの前で何かよからぬことが起きていることも、龍下が平然としていることも、どちらもあってはならない事だと考えていた。戯れというなら、おどろくばかりだが、そういうものだと飲み込むことはできる。
人など使い捨てなのだ。いつ殺されても、どう使われようとも可笑しくはない。それは運が悪いという言葉だけで片付けられる。特に女は、男の道具だ。
けれど彼女はそうではない。彼女だけはそうではない。
彼女は未だに眩しく光っている。汚く、救いようのない世界に日が昇り、地上に落ちるまで、彼女のすべてが損なわれることなどあってはならない。彼女ほど完璧な存在はない。
(こんな場所にいらっしゃってはいけない)
怒りにも似た感情が腹の底に生まれる。萌芽に気づかず、混乱するハリエットは龍下の言葉をきいていなかった。供も連れずに、ハリエットに寄り添うように腰を折った龍下は絨毯の上で震える手を取った。
「この通り、無事ヴァンダールに到着した。随分よくしてくれたと聞いている。その褒美を贈りたいのだ。いとし子の相手をしてくれたこと嬉しく思う。フラーケ教会のハリエット、良き修道女よ」
手の甲を滑る手は冷やりとしていた。
「ほ、褒美など恐れ多い事にございます」
「そう構えずともいい。お前が献身を捧げてくれたようにあの子もまた感謝を伝えたいだけなのだ。受け取ってくれるね」
―――あの子も?
驚くばかりのハリエットは、すぐそばで純白の下衣がひるがえるのを見た。雪の積もった山裾のように広がる白が、赤い絨毯の上に咲く。影をまとわぬ美しい白は、ハリエットの前に座り、頭を優しく抱いた。浮きあがる頭を胸に押し付ける手が、髪を梳くたびハリエットの瞼は震えた。
「神は見ておられる」
乳房の横からはみ出るハリエットの顔の前で、龍下は穏やかに言った。
物言わぬ残骸の腹に手を差し入れ、抜き取った何かをハリエットの手に乗せる。
ハリエットは首が動かせなかった。下を見る事ができなくとも、握らされた何かが短剣であることがわかった。
「は」
ハリエットは暴力を振るわれたことがある。飢えて他人のものを盗んだこともある。汚水を飲んで腹を下し、死ねるかと意識を失い、目覚めると老人に圧し掛かられていたこともあった。
爪で土を掻く音は、なかなか寝付かれぬ夜によく聴こえる。悲鳴をあげるのはいつも自分だった。怯えると相手は執念深く求めてくる。羽交い絞めにする力は強くなり、自分を高くおき、黒目が膨れ上がったような目で望む形にひろげていく。
それらはいつも男だった。
手の中にある短剣は重く、柄はごつごつとして、ぬめり気がある。がたがたと震える歯が音を鳴らし、龍下はハリエットの指ごと刃物を掴む。
ハリエットは火から手を抜くように渾身の力で短剣を離そうとしたが、押えられてできぬまま、ぼたぼたと涙を流した。喜びに波打つ唇が耳元で囁く。
「お前はこの子の顔を見たね」
何度も短剣を握り直させる手は、子を都合よく動かす親の傲慢さがあった。笑顔はじわじわとハリエットの肌を焼き、裏側の憤怒が女の身体を浸食していく。
「お前の在り方を非難したいのではないよ。この上なき喜びをもって迎え入れたいのだ。さぁ、しっかり握りなさい。途中で手放してはならないよ」




