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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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142/420

142 地獄の門と、

ハリエットは恐怖を直感していた。腹の上で重ねた手は汗ばみ、冷たい空気がまとわりつく指先は小刻みに震えている。凍えそうなほど冷たくも、怖ろしいほど熱くもある。息はあがり、口を閉じていられなかった。立っているだけで鼓動は全力で疾駆している。とりしずめようにも、息を止めてしまえば却って肺はみるみる絞られていく。


扉の向こうから――――絶え間ない絶叫、嗚咽が聴こえている。


ハリエットの全身をめがけて打ちつける声は、ぴたりと合わさった扉の隙間の、さらに奥から聴こえている。床から視線を離して、左右に少し首を振るが、肩があがって邪魔をする。本能が動くことを許さなかった。


横にいる男達は扉に背を向け、平然と立っている。耳に集積する絶叫や命乞いが一向にわからぬというように不動だった。馬鹿なのではあるまいかと思った。床をねぶる血飛沫さえ、ハリエットには鮮明に想像ができた。今まさに扉の向こうで起こっている惨劇から、どうして逃げ出さずにいられるのか。彼らは肌を噛み裂かれたことがないのだ。


(……こんな場所に御白さまが………)


いるわけがないと念じる思案をハリエットは必死に追いやった。ないと思った事は大抵の場合ある。


都市に到着したあと世話係の任は宙に浮き、幻に身をやつしていたハリエットは執行部の男に呼び止められた。何度か見たが名も知らぬ男は不機嫌な面体を隠さずに、ただ「連いて来い」とだけ言い放つ。自暴自棄になっていたので、どこにと睨みながら訊き返した。一言目にそういった反目がでるのはめずらしいことだった。何があっても平伏して、言いなりになれば何事も流れゆく。しかしこの時は、いっそのこと、男の後ろにいる馬の腹を攻めて、宛てもなく駆けだしたい気持ちだった。それほどあの方に傾倒し、あの方がなければ修道女であることも、自分という存在も意味のないものに感じていた。


聞き返したハリエットに、男の顔が憤怒に変わった。同時に痛みが走る。一打目、裏手で殴られた。頬は腫れ、口の中は血の味に変わる。顔をかばう時間もなかった。二打目、横倒しにされ、蹴られた。痛みの余り呼吸が止まる。男は人を痛めつけることに慣れている。そう思うハリエットもまた暴行されることに慣れていた。三打目はあったかわからない。意識を飛ばすために無心になったハリエットは、髪を掴まれ、馬の背に放り投げられた。痛む腹をさらにしたたか打って、ようやく意識を失った。


胃液が顔に垂れ、吐き戻しながら目覚めると橋の上にいた。体にかかる襤褸布は、全身を隠している。馬の歩みは遅く、振動が腹を痛めつける。それでもハリエットは生きていた。

荷物として市街地を運ばれていたのだろう。布は馬の歩みでずれかかり、わずかな隙間ができていた。片目だけ出すと、手綱を握る男の行く先に海上に鎮座する大聖堂が見えた。内湾の端から市街地をのぞむ小島には、いくつかの建物が並び、海鳥が空を悠然と飛んでいる。屋敷にいくつかの尖塔がついていなければ、それが教会だとはわからなかっただろう。荘厳な建物だったが、ひっくり返ったハリエットの目には冷たい牢獄に見えていた。


馬が同じように教会に向かう巡礼者を追い越していく。彼らは幽閉される罪人のように頭を下げて、一歩一歩踏みしめるように歩いている。背中に何がしか背負うものは、彼らを苦しめる人生そのものなのかも知れない。彼らはじっと足元を見ている。身の丈以上の馬に注意も払わず、床板をじっと見ている。ハリエットは祈るだけではどうにもならないことを知っていた。それでも祈らずにはいられないこともまた知っていた。


馬から降ろされ、大聖堂の奥、尖塔の天高くまで進んでいく。到達した最上階の扉の向こうに、誰がいるのかもう見当がついている。けれど、そんな事があってはならない。天使がいる部屋から、どうして耳を疑う絶叫が聴こえてくる。彼女の座す場所には、彼女の望むものさえあればいい。眼前の扉は地獄への門のように重苦しく、血の色をしている。このまま開かねばいいと、声も立てずにおののくうちに、血の匂いが濃くなった。


断末魔が鮮明に耳をつんざいた。それは音の破裂の連続だった。狂気を背に、扉が内側から押し開かれ、男が顔を出した。ハリエットは恐怖のあまり、咄嗟に身を引いたが扉番の手が背中を押えた。


男はハリエットの顔を見て何かは知らぬが不快感を露わにした。じれったさの為か、部屋の中に戻りたくて仕方がないのか、しかめた顔が引っ込む。扉番が「世話係の女です」と言って、背中を押し出した。のけぞって横ざまに倒れたハリエットを男は受け止めなかった。代わりに開いた扉から前のめりに倒れ込む。


絨毯をしとねにハリエットは目を瞑り、御白さまを夢見た。濡れた草を踏んで歩く姿、ぐらりと傾いで受け止めた体の軽さ、固い顎を吟味する舌の猥雑さを思い出そうとした。すべては終わったことだった。美しさという血刀を突き刺し、彼女は遠くに行ってしまった。


目の前で――――ごぽりと血を噴く音が聴こえる。


「誰か」


男の手がハリエットの首裏を掴んだ。のけぞって顔をあげると、横倒しになった男の向こうに美しい人が座っている。

真っ白い面紗を被ったあの方は少人数の男たちを侍らせ、玉座のような豪奢な椅子に腰かけている。ハリエットの知る顔はなかった。年老いた者も若い者もいる。すべて男だ。何者かというようにハリエットを睨む者もいれば、御白さまを凝視したままの者もいる。恍惚を隠さぬ顔でまじまじと見ている。異様な空間だった。






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