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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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140/416

140 別れの歌と、

食堂から賑やかに歌い、笑う声が響く。

食事と酒が余程気に入ったのだろう、でたらめな詩を放吟している。重なる声が領地の名前を叫んでいる。ホルミスは編籠に積まれた果物を眺めながら、食堂に併設されている屋内市場の通路をひとり歩いていた。


街の市場はどこも活気に溢れていたが、中でも目を引いたのが異国の商品だった。ホルミスとヴァンダールの間でも商人の行き来は頻繁に行われているが、海を越えた商品の取引は禁じている。しかしヴァンダールは唯一他国との貿易を承認されている港を持つ都市だ。だからこそ、こうしてホルミスの目の前に海を越えた商品が難なく飾られている。


実際手にして検めてみると、上質で申し分が無い。類似商品より高価ではあるが、市場への進出具合を見ると、将来的に国内市場を揺るがす存在になるのだろう。ヴァンダールは独自に異国と密接な関係性を結び始めている。多国への商業圏の進出については今回の大会の議題の一つでもあった。


「……さてもヴァンダールほど浮薄な民がかつてあっただろうか」


遠い昔に流行った戯曲の一節を独り言つ。舞台の上で吐かれた皮肉は、梁から吊るされた香辛料や乾燥花のあいだを抜ける。跳ね返ってきた静寂は、土くれがついたままの根菜や、虫食いの葉の青々とした匂いを沁み入るように際立たせた。


「ほどほどに浪費する癖を心得ていたホルミスは別だ」


と、誰かが言ってホルミスは部屋の一隅を見た。その言葉は相手役の男が皮肉を返す時に用いられた台詞だった。間仕切りの奥から杖をついた男が現れ、ホルミスは無垢に顔を緩める。老人は杖を左わきに置いて、歪まない姿勢のまま端座した。


「歓待心から感謝する。あの通り、騒がしいのは許して欲しい」

「何をおっしゃいます。ひと時の止まり木となれたこと、誉れでございます。しかしかような場所でよろしいのですか? 皆様、大主教様をお待ちです」

「声を聴いているだけで充分だ。それより少し頼まれてはくれないか」


馬留めに食事を届けるよう願うと、老人は快諾して、その場を離れた。

そこには経年特有の執拗さはなく、過剰な慇懃さもない。贈り物だけ手渡して、身を引く品位には助けられる。往年の召使に再会したかのような優しい心地が、激しい偏頭痛に痛む頭を癒した。


「………」


ホルミスはいよいよ傍らの樽の上に腰かけた。我ながら無様な格好だと思いながら、左手で目頭をほぐす。瞼を閉じると、虫のもがきと同じく暴れる男の感触や、指を口に咥え、震える男のぐずったような声が、今更思い起こされた。哀れな死に狂いのさえずりを、ホルミスは聞いてなどいなかった。


あの時、構えて口を慎みながら、男がひとり地下室に潜んでいた。司祭を揺るがしながら、片足で床を擦ると、合図に気づいた男が暗闇の中から飛び出した。音もなく神像の裏にはりつくと、彫刻の隙間が引き開けられる。


石が床を擦る鈍い音は、佚楽と恐怖の絶叫が隠した。司祭は意識を乱し、いらぬものに成り果てる。神像の背後を割るように現れた漆黒の隙間に向かって、男が小腰をかがめた。彼は振り返らなかった。その後姿を、美しい髪の流れ一つ逃さぬように見ていた。振り返れと念じていたことに気づかずに。


胸の中の男が力を失い、膝を折る。しなだれかかる腕を掴み直すと、その隙に彼は闇の中に去っていった。


口を開けたまま動かなくなった司祭の息を確かめ、床に放る。これからの事を一通りや二通り巡らせながら神像の裏へ回り込むと、危うさと不審さを湛えた地下への階段が、先も見えぬ闇に通じていた。

始まってしまった、そう思うとホルミスの気はどっと重くなった。扉を封じ、司祭が目を覚ます前に元に戻さねばならない。しかしホルミスの足は闇の前で動かない。


心の底で、今日という日がこなければいいと思っていたことに気がついた。偏頭痛はその瞬間から男の頭蓋を引き絞り、罪を裁くかのように居座っている。


「願望を他者に託す者の多い事よ」


ホルミスは、ふふと力なく笑った。


「女は涙を操れるが、男はそうはいかない。死ぬまでに心からの涙を見せる男がどれほどいるだろうか」

「男の心というものは液体であると、おっしゃったこと覚えています」


若い声が優しく寄り添うように応えた。それは間仕切りの裏からかも知れない。連なる商品棚の裏から聴こえてくるようにも思えた。ホルミスは腰かけたまま動かず、相手を探そうとしない代わりに、言葉を強く打ちきった。


「トリアスは無事発った」


最後に見た後姿は、もう鮮明には思い出せない。


「敬服している。君たちが踏み出した岐路を。自らの願いを勝ち取るためにした選択を。君の願いは決して現実から辞するものではない。すみからすみまで情熱で溢れ、そして正しい。だから自信をもって行け」

「はい」

「私は生涯君を忘れない」

「……私は貴方の策士ぶっているところが好きでした」


終わりまで聞いていてそれかと、ホルミスは閉じていた目をぐっと開いた。


「君の思う通りに生きろ、スベルディア。次の世で逢おう」


小気味いい返事を最後に、ホルミスは一人になった。今度こそひとりになった。





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